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桃屋の創作テキスト置き場
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■こんぺいとう 4  あくとあくたーず6 ■




「おはようございまーっす」


 輝愛のいつも通りの呑気に晴れやかな声が、稽古場に響き渡る。
「お、はよー」
「はよっす」
 彼女(と、彼・・もとい、自称親代わりの三十路男)よりも早く稽古場入りしている人間は、毎度の事ながら決まったメンバーである。
 輝愛に次いで若年の有住浩春と、どこかしら掴めない雰囲気で、やや線の細い感のある志井大輔である。
 二人は各自勝手に身体を伸ばしており、その姿勢のまま、首だけを向けての挨拶である。
 

「あのさ、輝愛ちゃん」
 着替え終えて早速アップを始める彼女に、てこてこと近寄り、耳元で話しかける有住。
「はいな?」
 前屈の要領で、座った状態で足首を「これでもか!」とばかりに鷲掴みにしている輝愛は、そのままの体勢で器用に顔だけを有住に向ける。
「昨日の・・・」
 彼はバツが悪そうに人差し指で頬を引っ掻きながら、
「ぶっちゃけ、どうするのさ?」

「どれのこと?」

 男性にしては珍しいさらさらの髪の毛をなびかせて、有住が床に突っ伏す。
「どれって・・・アレしかないでしょうに・・」
「・・・・・」
 脱力しきった有住の横で、十分に身体を伸ばす輝愛。
 ひょっこんと立ち上がり、「ん~」と言いながら伸びをして、そこでやっと口を開く。
「ああ、キスシーンの事?もしかして」
「って、今まで悩んでたの!?何その鈍い脳みそ!?」
 いつでも本気、良くも悪くも大真面目な輝愛に、それこそこちらも本気で怒鳴りツッコミを入れる。
「あははは」
「あははじゃないよ?二十歳前にして脳細胞イカレてない?輝愛ちゃん」
 笑って済まそうとしたのかは定かではないが、その輝愛に辛辣で、しかしながら的確な意見を告げる有住。
「・・・・」
 その台詞に、今度は本気で青くなり、見る間に落ち込む輝愛。
「ああ!?嘘!冗談!・・って、冗談でも無いけど・・ってゆーか、輝愛ちゃん鈍いのは今に始まった事じゃないのに、つい突っ込んじゃってゴメン!」
「鈍いらしいって事は、皆に言われてるんで認めます・・」
 苦笑しながら頭をぽりぽりやる輝愛。
「で」
「はい?」
「はいじゃないでしょ!」
 いかにも「分かってない」状態の輝愛に、再び怒鳴る有住。
 見た目の男らしさからは幾分かけ離れた所にある容姿の彼も、実際蓋を開けて見れば二十歳の若年の青年でしかない。

「どうすんの!輝愛ちゃんやるの?」
「やるですよ」
「どうやって?」

 訝しげな視線と共に、矢継ぎ早な質問が浴びせかけられる。
 最もな意見である。
 昨日「鼻がぶつかる」発言をした娘である。その娘の「やります」宣言も、本当の所実際の意味が分かっているのか、有住が不安になるのも頷ける事だった。

「だいじょぶですって。あたしもちゃんとお芝居練習してますって」
「そりゃあまあそうだけど・・・・」
 半眼になってみるも、当の彼女はにへら~と笑ってみせるだけで、有住のこの怒りだかなんだか良く分からないもやもやをどうする事も出来ず、視線を走らせた。
 交差した視線の先には、先輩、志井大輔の姿。
 後輩からの所謂「SOS」を受け取ったにも関わらず、大輔はいつも通りの人当たりの良い笑みを崩さないまま、そして無常にも有住の真横を面白そうに通り過ぎたのであった。
「げ、大輔さん!?」
「あはは~」
 泣き声じみた声を上げた後輩を、生易しく放置する先輩の生暖かい声。

 このチームは、本当に仲が良いのだろうかと、有住が不安に陥る瞬間である。
 先輩連中から言わせれば、これこそが仲が良い証拠だと言われるのだが、輝愛が入るまで最年少だった有住は、いささか毎回不安に陥っている。

「ありすさん、あたしはへーきよ」
「・・・そうですか・・・?」
 有住は、朝っぱら、稽古前から、何故だかかなり疲労した気がしたのだった。





 稽古中の稽古場。
 板の上。
 そこの上に立つ、チーム最若年の二人。


 二人の間・・もとい、片方のみは、ひどく緊張していた。


「・・・・頼むよ、輝愛ちゃん」
 有住は、誰にも聞き取れないくらいの小声で、小さく彼女―向かいに佇んでいる輝愛―に呟く。
 最も、有住自身にも聞き取れるか否かの小声が、実際彼女に届く筈はないのだが。
 心が通じたのか、輝愛は有住を見て「にぱ」(注:輝愛が表現するとこんな擬音らしい)と微笑む。


 演出の笹林の支持で、例のシーンの確認に入る。
 稽古場での稽古とは言え、劇場入りも間近に迫っている今、衣装やメイクは無いものの、音響等の効果も当然参加しての稽古だ。
 抜きでの通し稽古の様な状態である。
 当然、既に芝居の全てに演出が付け終えられており、今は確認及び熟読する期間のようなものだ。


「じゃ、行きマース。はい」
 いささか緊張感にかける笹林の声で、音響担当がバックに流れる音楽の音を上げ、二人の芝居が始まる。

 つばめに扮した輝愛が、上手から板の上に走る。
 何かに弾かれた様に背後に振り向く。
 音響担当の、絶妙な間でのきっかけの音が入る。


 ・・・・うん。


 笹林が『演出さんの椅子』と自ら張り紙した椅子に腰掛けたまま、低い声で頷く。
 どうやら、輝愛の演技も彼の及第点に達したらしい。
 ちなみに、演出の笹林の横に座る、演出助手の菊本の椅子にも、『助手さんの椅子』の張り紙がある。
 演出と演出助手は、無言のまま一瞬目を合わせて、にやりと微笑んだ。


 例のシーンである。


『何だ、お前』
『私は、あやめ』
『あやめ・・?』


 板の上、ほぼ中央で、二人の芝居が進む。
 音響担当も、電飾担当も、見せ場のシーンに食い入るように見つめている。
 最も、手は全て機材の上で、絶妙のタイミングを計っているのではあるが。


『そのあやめが、何の用だ』


 いつもの輝愛からは想像出来ないような声で、しかも芝居でしか今のところ見る事が出来ないほどの、俗に言う不愉快な顔で、彼女はあやめ、有住に向き直る。


『お前に私の記憶を』
『・・・は?』
『お前に、私の、記憶を、渡そう』


 ゆらり、と足音も無く近付く有住。
 ようやく何とか騙し騙しながらも形になった、女形の足運びである。
 女形を教えた師匠の大輔も、いつも通りの柔和な笑みを浮かべている。
 こちらも及第点の様である。


『何を・・・』


 輝愛の台詞をきっかけに、有住が動き、バックに流れる音が高くなっていく。



『お前は動けない
 お前は私
 私はお前
 私の全て
 飲み込むが良い』



 朗々と言い放つと、舞台中央で立て膝になっている輝愛に、有住が彼女の顎を持ち上げる。
 『つばめ』の目が、畏れと緊張で見開かれる。
 『あやめ』が静かに、彼女の唇に口付け、息を吹き込む。
 共に瞳は開いたまま。
 『つばめ』は彼女を突き飛ばし、腕で口を拭う。


『何しやが・・・う・・・お前・・何しやがった・・・』


 にわかに苦しむ『つばめ』。
 それを静かな表情で見詰める『あやめ』。
 二人が対峙するように立ち、『つばめ』が悲鳴を上げる。
 バックの音が弾け飛び、暗転。



「・・・・・あの?」
 あやめから戻った有住が、笹林の方を怪訝そうな顔で見ている。
「ん?あ?ああ、ごめんごめん、見入ってた。一端ここで切りますね」
 笹林は掛けられた声にようやく言葉を発し、椅子から立ち上がる。
 未だに座り込んだままの助手、菊本に振り返り、
「大正解だったでしょ、菊ちゃん」
 と言って、満足そうに笑った。





 ふう、と一息小さく息を吐き、何故だか酷く疲れた気がする肩や首を回して、有住は横で水のペットボトルを口だけでくわえている輝愛に話しかける。


「輝愛ちゃんどしたの?」
「何がですか」
 ペットボトルを口から手に持ち替え、いつものきょろんとした目で聞き返す。
「いや、やけに普通に頂けたので」
 ファーストキスを、と言いかけて、恥ずかしくなってそこで止める。
「何を」
 有住は目の前の、僅か2、3歳しか違わない娘の鈍さに、再び頭を抱えながら、
「キスだよキス!ちゅーのシーン!」
「えっへへ」
「何が可笑しいの?頭平気?」
 自分だけ照れているのが恥ずかしいのもあって、有住は笑う輝愛の頭を軽く小突く。
「昨日『鼻がぶつかる』って言ってたのに。同じ人間とは思えない」
「秘密があるですよ」
 輝愛は得意満面で答える。
 有住は未だに胡散臭そうな顔で、彼女を見ている。
「秘密ぅ・・?なにそれ。それで上手くなるの?キスが?それとも芝居が?」
「多分両方」
 何の疑いも無く答える輝愛に、有住も照れが退いてきたのか、普通に話し始める。
「どーすれば上手くなるの?昨日帰ってから何したのさ」
「うん、あのねー」
 輝愛は及第点を貰えたのが嬉しいのか、にこにこしたよく通る声で、恥ずかしげも無く(それも大分大声で)言い放った。


「昨日の夜、カワハシと練習したのー」


 一瞬、聞こえた人間が何の話だとばかりに振り向く。
 ただ単に、輝愛の声のでかさに振り向いた人間も、相当数いたのだが。


「練習?」
「そう、練習」
 輝愛の屈託の無い台詞に、しかし有住は一瞬考えてから、

「え、練習って、何の・・?」
「だから、今やったちゅーする・・」



 すかけえええん!



「い、いったあああ~」
「輝愛ちゃん!?大丈夫!?」
 清清しいくらいに響き渡った軽い音。
 そして、何故か頭を抱えてうずくまる輝愛。

 ちょっと先の床には、いまだくわんくわん回転している、アルミ製の灰皿。

「生きてるけど、うしろあたま痛い・・」
「あ~、こぶ出来てる。冷やしな」
 涙を浮かべる輝愛に、濡らしたタオルを頭に乗っける有住。
 しかし落ち着く間も無く、輝愛はずんずんとある一点を目指して歩き出す。


「ちょっとカワハシ!痛い!」
「知るか!」


 そう、諸悪の根源、もとい、灰皿ストライクさせた張本人である。
「何で投げるの。あたし何もしてないじゃん」
「してなくても言った!」
 片手に煙草持ったまま、さも不機嫌そうに娘分を頭ごなしに怒鳴る。
 まるで子供の喧嘩の様ではあるが。
「何をよー」
 輝愛は未だ痛むのか、後ろ頭をさすりさすり反論する。
 そこでいよいよこめかみの辺りを痙攣させた千影は、声を低くし、輝愛とおでこがくっつく位に近付いて、
「・・・・何でもいいから、余計な事言うな!」
「何、余計って」
「何でもだ!大人の世界は難しいの!」
「・・・・・ぶー」
 ようやく大人しくなった輝愛が、両のほっぺた膨らませて不満な顔を作るが、すぐにきょろんと目の前の千影を見上げて、不思議そうな顔をする。
「・・・・?」
「何だよ」
 いきなり大人しくなった娘分に見上げられ、さっきまでの勢いは何処へやら。


「カワハシ、赤い?」
「え?」


 下から覗き込まれて、輝愛の顔が余計近付く。
 もう少しで触れそうなくらいまで、だ。


「顔」
「!!」


 言い当てられて、大急ぎで輝愛を引き離し、踵を返して歩き出す千影。
「どこ行くの」
「便所!」
 怒鳴るように言い捨てて、そのまま早足で稽古場から出て行く千影。
「何なんでしょ」
 残された輝愛は、こぶをさすりながら、首を傾げた。

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■こんぺいとう 4  あくとあくたーず7 ■




 休みが出来た。
 丸一日の休みなんて、いったいいつぶりだろう?
 千影はそう思いながら、話を聞いていた。
 
 芝居の稽古も、もう佳境である。
 この馴染みある稽古場での稽古も、先週で最後になった。
 ゲネプロも終了し、あとは明後日からの本番を待つばかりなのだが。
 劇場の仕込みの関係上、明日は出演者はお休みと言う事になったのだ。
 劇場側の最終調整上日程が取れずに、やむ無く仕込みが一日分延期になったらしい。その為の、言わば無駄な空き時間が発生してしまったのだ。
 最も、稽古する場所がなければ、稽古のし様も無いのも、事実なのだ。
 勿論、役者以外のスタッフは、総出で劇場入りをし、明後日からの 舞台に備えるのだが。
 と言う訳で、それこそ久方ぶりの休暇が、思いもかけずに舞い込んできた形になった。

「・・・帰るぞ」
「あい」
 千影の気の抜けたような声に、輝愛が訳の分からない単語で返事をする。
 そのままちょこちょこと小走りにかけて来て、彼の横に並ぶと、今まで会話をしていたスタッフに手を振って挨拶をした。
 千影は「おつかれさま」と言って笑うと、いつもより、ややゆっくりと歩き出した。

「久しぶりのお休みだね」
「あー」
「何しようかなー、あ、布団干そうかな。晴れるといいなあ」
「ん」
「それにお掃除もしなきゃだし」
 やりたい事を指折り数える彼女の横で、のそのそと気の無い返事を繰り返す。

「んもー、カワハシってば!」
「んあ?」

 怒られて初めて目線を彼女に向ける。
 その頬は、ぷくっとふくらんでおり、眉間に皺を寄せてはいるが、失礼な話、ちっとも怖くも何とも無い。
「全然上の空。話聞いてた?」
「おー聞いてた」
 あっさり言い放つ千影に、しかし彼女はすかさず、
「じゃああたしが何て言ったか言ってみ?」
「・・・・」
 思わず口篭もる千影。
「ほれ、やっぱし聞いてないじゃん」
「聞いてないんじゃないぞ。聞いてたけど、素通りしてただけだ」
 開き直ったというか、さも当然のように反論されて、輝愛は呆れたように肩を落とす。

「それじゃあ余計タチ悪いってば」

 改札を抜け、ホームに降り立つと、すぐさま電車が滑り込んでくる。
 時間帯が珍しく通勤通学のラッシュとかぶってしまい、見慣れぬ満員電車に二人とも僅かにため息を吐いた。
 乗り慣れた会社員達が次々と乗り込み、二人はようやく最後になって無理やり体を車内に閉じ込める。

「潰れるなよ」
「潰さないでよ」

 車内と言う事もあって、小声で嫌味を言い合う。
 ドアに背中をへばりつかせて何とか立っている状態の娘分に、千影はこの混雑の中、器用に体を動かして、彼女の肩を抱き込んで、自分の腕でクッションを作ってやる。

 それで漸く呼吸が出来るようになったのか、輝愛は千影の胸に頬をくっ付けて、「はぁ」と息を吐いた。
 瞬間、カーブに差し掛かったのか大きく揺れる。
 千影は思わず力を込めて、彼女を抱き締めた。
「・・生きてるか?」
「・・えへへ」
 耳元で問い掛けると、首を動かせないのか、目だけで見上げて、小さく笑う。
 彼女が何故笑ったのか分からずに、いぶかしげな顔をすると、表情から伝わったの
だろうか、逆に耳元で囁かれた。


「あったかいから、いいの」
「―――え?」


 聞き取るのも難しいくらいの小声に、目を見開いて声を漏らす。
「カワハシがあったかいから、平気」


 どきりと、胸が跳ねた。


 これだけ密着していて、しかも彼女の頬は自分の胸にくっつけられていて。
 恐らく今のも聞こえてしまっただろう。
 

 喉が鳴る。
 不覚にも、目が泳いだ。
 

 そんな事を気にしていないのか、気付いていないのか(恐らく後者だろうが)、娘分は嬉しそうに自分の腕の中で身を預けて来る。
 ・・・勘弁してくれ
 空いた片方の手で顔半分を覆って、千影はドアに頭ごともたれかかった。 

 やっと、それこそやっと解放されて、逃げるように電車から降りる。
 よほど車内が苦しかったのか、輝愛はほっぺたを真っ赤にしていた。
「毎日乗ってる人は偉いねぇ」
「本当にな」
 毎日通勤の混雑に当たらない時間に乗れていた事を幸せに思ったのか、二人で同じ感想を述べる。
「帰ってご飯にしよ」
 そう言って、いつもの様に千影の手に自分の指を絡ませる。

「!」
 しかし、彼女の手が手が触れた途端、勢い良く、振り払われた。
「・・・・・・あ」
 思わず勝手に動いてしまった手と、目の前で呆然と立ち尽くしている彼女を交互に見つめ、バツが悪そうにそのまま歩き出す。
「・・帰るぞ」
「あ・・うん」
 輝愛は、その後は手を繋ごうとしなかった。
 千影も、両手を自分の上着のポケットに突っ込んだまま、家路を急いだ。
 



「・・はあ」


 本日何度目かのため息である。
 台所では娘分が甲斐甲斐しくも晩飯の支度をしてくれている。
 自分はと言うと、同じ部屋に居ずらくて、物置代わりにしている部屋で、暖房もつけずに煙草をくわえている。

 輝愛が滅多に入らない、彼のプライベートな空間だ。
 壁際に沿って置かれた棚には、今まで出演してきた舞台のビデオやDVD、彼の集めた映画や本の類が、それこそ山ほど詰め込まれている。


 その棚の、一番端にある、小さなアルバム。
 何年かぶりに手に取って、ぱらぱらとめくってみる。


 まだ若かったころの自分達が、馬鹿みたいな顔で映っている写真たちが居た。
 思わず目を細めて、ページをめくる。
 最後のページで、手が止まる。
 懐かしそうに、でも僅かに寂しそうに、千影は一枚の写真を見つめた。


 7、8年程前。
 まだ自分が若干22歳頃、大学を卒業したばかり頃の、アクションチームのチームメンバーで撮影した集合写真だ。
 集合といっても、珠子に紅龍、勇也と自分と、もう一人しか映っていない。


「可奈子・・」


 写真のその人に、話し掛けるように呟く。
 皆二十歳を出たくらいの若年だった。
 珠子の横には紅龍が、今みたいに寄り添っていて、勇也なんて、まだ高校生だった。  なんて思い出して、微笑んだ。
 可奈子の横で、嬉しそうに笑っているのは、昔の、自分だ。
 自分の横で、これ以上に無いくらい微笑んでいるのも、昔の、可奈子だ。

「今のままじゃ、ダメだよなあ、やっぱり」
 そう呟くが、当然帰ってくる言葉は、無い。
「行く、か・・」
 言って、煙草を吸い込む。

「皆、老けたよな・・」
 
 言って、アルバムを閉じた。
「ご飯できたよー」
 と、娘分の、いや、輝愛の声が聞こえる。
 老けてないのは、お前だけだな。
 そう、心の中で付け足して、千影は部屋を後にした。

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■こんぺいとう 4  あくとあくたーず8 ■




「明日、可奈子に会いに行く」
  

 食卓につくなり、『いただきます』より何より先に、そう告げられた。
「あ、そう」
「うん」
 それ以上何を言えばいいのか分からず、黙ったままでいた。 
 妙な沈黙の中、電話の呼び出し音が鳴る。
 沈黙を破るためか、大急ぎで電話に手を伸ばす。

「はい、もしもし・・」
『あ、輝愛ちゃん?』
「珠子さん?」

 電話の相手は、珠子だった。
 普段なら用事があれば千影の携帯にかけて来るのだが、今日は自宅からなのか、家の電話にかけて来ている。

「どうかしたんですか?」
『いやーねー輝愛ちゃんってば!何にも無きゃ電話もしちゃいけないの?私哀しい!』

 珠子の言葉に、思わず苦笑する。
 要するに、特に用事は無いらしい。

「珠子?」
「そう」
 何時の間にか食事を始めていた千影に訊ねられ、受話器を押さえて答える。
「暇だな、アイツも」
 言って、苦笑しつつ、箸を進める。

『二人とも、明日のお休みは空いてるのかしら?』
「明日?」

 言われて思わず千影に視線を走らせる。

『あら、都合悪い?』
「いえ、あたしは平気ですけど、カワハシが・・」
『ちかちゃんが?』
「はい、可奈子さんの所に行くって」

 電話の向こうで、がたん、と大きな音がした。
 恐らく、珠子が座っていた椅子から、凄い勢いで立ち上がりでもしたのだろう。

『・・・輝愛ちゃん、ちかちゃんがそう言ったの・・・?』
「はい」

 何だか言ってはいけない事だったのかと、声を顰めて答える。

『ダメよ』
「え?」
『絶対に一人で行かせたらダメよ!?』
「え、な、なんで・・」
『なんでもよ!良い事輝愛ちゃん?出来るなら止めて頂戴。でもそれが無理なら』


 珠子の物凄い剣幕に、受話器を握り締めたまま、喉をこくりと鳴らす。

『あなたも着いていって頂戴』


「は?あたしがですか?」
『そう。お願い』
「でも・・」


 珠子のいつになく真剣で、その上切羽詰ったような口調に、事の次第が全く分からない輝愛は動揺を隠せない。
 受話器と千影を交互に不安そうに見つめて、小さな声で、
「カワハシぃ・・」
 と呟いた。
 千影は苦笑して椅子から立ち上がり、輝愛の後ろから受話器を受け取る。


「こら、馬鹿珠子。多分お前は先走り」
 

 漸く受話器が千影の手に渡った事で安堵したのと、逆に珠子の真意が分からないままだった事への不安で、輝愛は会話を続ける千影の背中を見詰めていた。


「だーいじょーぶだって!分かってるって!」
 苦笑したような声のまま、恐らく珠子をなだめている千影。
 その表情を盗み見て、笑っている事を確認して、少しだけほっとする。

「ん?―――ああ、分かってるって。んな事しねーっつーの。ガキじゃあるまいし。―――え―――ああ、うん―――はいはい。――ああ、そのつもりだよ」
 珠子の口調も穏やかになったのか、先ほどは漏れていた受話器からの声も、もう聞こえなくなっていた。
「はいはい、いつまでもうるさい・・・いやいや、嘘ですすいません――ああ、じゃあ――――――悪いな、いつも」
 耳から受話器を離して、小さく息を吐いて、受話器を戻す。


「いつまでもおせっかいな姉貴分だ」
 そう言って、椅子に戻りながら笑った。
「愛されてる証拠だね」
「全くだ」
 何故だか久しぶりに見た気がする彼の笑顔に、輝愛の顔もほころぶ。
 食事の続きを始めて、幾分経って、千影が思い出したように一言告げた。
「あ、明日お前も行くんだぞ」
「へ?」
「可奈子んとこ」
「ほ?」
 あまりに唐突に、しかも当たり前のように言われて、思わず筑前煮をぽろりと取り落とす。
「寒いから、ちゃんと着込めよ。あと、スカート禁止な」
「・・・言われなくても、スカートなんて持ってないもん」
「そうだっけか?まあいいや」
 そう言って、カレイの煮付けを口に運ぶ。
 輝愛は何だか、今日一日の千影の態度のあまりの変化に、狐につままれたような
感覚のまま、口の中のご飯を飲み下した。





「ジーンズにジャケットじゃ寒い?」
「寒い」
「じゃあぷらすマフラー」
「足りない」
「ぷらすもこもこセーターにブーツ」
「微妙」
「もう服もってなーい!」
 その日の夜。
 明日何を着ていくかでもめている。
 もっとも、何処に行くかも聞かされていない状態で、「服選べ」って言われても無理がある。
 と、被害者の彼女は思っていたのだが。

「俺のだとでかいけど、寒いよりマシだろ。上着貸してやる」
「下は?」
「何お前、下着まで借りるつもり?」
 あからさまに芝居と分かるような大袈裟な動きで驚愕してみせる千影に、
「ちがーう!」
 と頬をふくらませる。
 その様子を見て、彼はおかしそうに笑うだけだ。
 彼女にしてみれば、どうも釈然としないものが残っているのだが。
 輝愛の表情に気付いたのか、千影はぽんぽんと彼女の頭を優しく撫でる。
「?」
「バイクで行くから、風が強いし、ちょっと山の上だ。だから寒くない格好にしろって言ってるんだよ」
「分かった・・」

 そんな風に珍しく優しく微笑まれたら、許してやらない訳に行かないじゃない。
 全部計算してたとしたら、嫌だけどさ。

 心の中で一人ごちて、再び洋服選びに入る。
「これとこれとこの上着に、これ巻いて、ブーツはいて、おなかと背中にカイロ貼る!」
「上等」
 やっと選び終わった服を並べるきあに、優しい目で答える。
 彼を下から覗き込んで、手で顔をはさむ。

「トーイ?」
「・・・元気ない」
 いきなり言い当てられて、苦笑する。
「カワハシ何だか元気ない。今日のカワハシ、いつも以上におかしいよ」
 彼女の鋭さには舌を巻くが、いささか気にかかる言葉も吐かれた。
「・・・お前ね、いつも以上ってどーゆー事よ」
「そのまんま」
「あ、そ」
 笑いを狙ってとか、そう言った類では無いのは分かってはいるけれども、こうも間髪居れずに答えられると、こちらは苦笑するしか、もう残された手立ては無いのだ。


「元気になるために、明日出かけるんだよ」
「そうなの?」
「そうなの」


 答えてやると、不安そうな表情を吹き飛ばし、嬉しそうに微笑んだ。
 風呂上りでおろした髪の毛が、一緒に揺れている。
 別段美人ではないし、子供っぽい顔つきではあるのだが、

 今の彼女は、美しく見えた。

「・・・もうダメだ。俺の脳も目も老衰だ」
「年寄りだもんね」
 大袈裟に悲しんだら、再び間髪居れずに情け容赦ない突っ込みをくれて、本日何度目か分からない苦笑を強いられる。
 ベッドサイドに腰掛けて、足をぷらぷらさせるのがお気に入りらしい彼女は、今日も例に漏れず両足を交互にぷらぷらさせている。
 その輝愛の髪の毛をさらりと撫でて、

「一個、お願いがあるんだけど」
「どしたの?」
 真剣な、でも少し脅えたような声に驚いて、目の前に立っている千影を見上げた。

「聞いてくれる?」
「いいよ。何?」

 『お願い』の内容も聞かずに、よくもまあ簡単に『いいよ』なんて言えるものだと思いながら、しかし他の人間にまでそう簡単に答えるんじゃないぞ、とも思いつつ、ゆっくりと口を開く。

「寝たい」
「はいどーぞ」

 答えるなり、するりとベッドの奥側ーー彼女の定位置に移動する。
「あともう一個」
「二個目のお願いだね。嘘つきだ」
 くすくすと笑いながら、『なあに?』と見上げてくる。



「抱き締めたい」



「・・・・え?」
 思いもかけない台詞に、珍しく彼女の動きが止まる。
 目を見開いて見詰めて、後の言葉が続けられないで居る。
「抱き締めたい。抱き締めて眠りたい」
「カワハシが・・・・?」
「そう」
 穏やかに、でもはっきりと頷く。
「あたしを?」
「そう」
 答えた後も、きょとんとして、首をかしげたままだったが、漸くぱちくりとまばたきをしたかと思うと、笑った。

「いいよ。はい」

 言って、両腕をまっすぐ差し出す。
 小さい子供が『抱っこして』という仕草のように。
 その動きが、実年齢とは妙にアンバランスなのが妙に可愛らしくて、千影は目を細めたあと、静かにベッドに膝をついて、彼女に近寄る。
「お前、やっぱり変だよ」
「あたしが?カワハシじゃなくて?」
「お前が」
 彼女の頬を指先でするりとなぞって、そのまま肩に手を乗せる。
 その間も、輝愛は千影から目を逸らさずに居た。
「珍しいな」
「え?」
「ちょっと、顔が赤い気がする」
 言われて口をとんがらせる。
「だって、何かカワハシがオヤジくさいんだもん」
「げ、どこが?汗くさいってこと?」
「違う違う」
 彼女は狼狽する千影のまえでぷるぷると首をふり、
「何かね、あたしが知らない顔してるから、変な感じなの」
「大人の男って事ですか?」
「ってゆーか、えろおやじ?」
 三度間髪入れずの突っ込みに、がくっと頭をうな垂れる。 
 でもまあ、それでもいいかとも思う。
「そう、実はエロオヤジ」
「やっぱし!」
 そうニヤリと笑って答えて、彼女もひとしきり、珍しく声を出して笑う。
 しかし、彼女の肩に置かれた手はそのまま。
 距離も離れるどころか、縮めていて。

「カ・・・カワハシ、やっぱちょっとストップ・・」
「ん?」
 頬を染めて顔を背ける輝愛に、聞こえないふりをする。
「やっぱり恥ずかしい」
「いつもと同じだろ」
 毎日同じベッドで寝ているんだから。
 と言いつつも、ああ、自分は大人失格だな、と思う。
 その間も、徐々に彼女との隙間を詰めて行く。
「いつもと、なんか違う」
 彼女の反論には答えずに、膝で歩いて進んで行く。
 背中に壁が当り、逃げ場が無くなった輝愛が、初めて見せるような赤い顔で見上げている。
「・・・馬鹿だな、逆効果だっつーの」
「へ?」
「こっちの話」
 言うが早いか、千影は左肩に置いた右手を輝愛の背中に滑り込ませ、反対側の右肩を抱く。
 体育座りみたいな格好になった彼女の両足の膝の裏から、左手を突っ込んで、お姫様抱っこの要領で持ち上げる。
「ひ!」
 いきなり宙に浮いた事への驚きか、はたまたそれ以外の何かでか、輝愛は小さく声をあげる。

 そのまま優しくベッドに横たわらせ、改めて覆い被さるように抱き締めた。

「カワハシ・・・?」
 輝愛の声に、応えずにその分腕に力を込める。
 漸く緊張がほぐれて来たのか、大分経って輝愛の体の力が抜けていくのが分かった。
「大丈夫。何もしない」
「・・・うん」
「今のところ」
「それどーゆー・・」
 付け足した言葉に反応して、輝愛が不審げな声を出す。
 彼女の顔が目に見えるようで、千影はくつくつと喉を鳴らして、そのまま輝愛の首筋に顔を埋めた。
「ひゃ!」
 輝愛がくすぐったかったのか、変な声をあげる。
「どーした?」
「な・・なんかした?」
「まだしてない」
「まだって何よまだって!」
 心無し声が震えている気がして、再び喉を鳴らす。
 彼女の首筋に、唇を落とした。
「な・・なんかした!?」
「ちょっと吸ったくらいでは、したうちにはいらない」
 しれっと応えて、再び顔を埋める。
「カワハシ信用できない・・」
 泣きそうな声のまま、『もう!』と小さく叫んで、両腕を千影の背中に回す。
「早く寝なさい!」
 そう言って、ぎゅうっと力を込める彼女に、千影は顔が見えてないのをいい事に、これ以上にないくらい嬉しそうに微笑んで、目を閉じた。


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■こんぺいとう 4  あくとあくたーず9 ■




「じゃ、行くか」
「うん」

 翌日、身支度を整え、千影が輝愛にバイクのメットを渡す。
「これ、かぶるの?」
「そ。だから馬の尻尾はほどいた方がいいな」
 言われて髪の毛を縛っていたゴムを外し、渡されたフルフェイスのメットを被ってみる。
「どお?」
「聞こえにくいし話しにくい」
「まあ、ちょっと我慢してくれや、な?」
 メットの中で大声で叫ぶ輝愛に、優しく微笑んで、千影は彼女を手招いた。
「あ、悪い、ヒップバック、お前がつけて」
「なんで?」
 自分の腰から外してヒップバックを渡すと、彼女はそれをしげしげと眺めて問い返す。
「二人乗りだから」
「?」
 言われるままに、理由は分からなかったが、自分の腰に巻き付ける。

 ブウォン
 と、景気の良いエンジンの音が低く響く。
「バイクなんか持ってたんだ」
「普段あんま乗ってないからなあ。見るの初めてだったか?」
 輝愛はこっくりと頷いて、黒地の光沢あるボディを撫でる。
「じゃあ、乗って」
「どこに?」
 自分のメットを被りながら言うと、彼女はさも不思議そうに問い掛けてくる。
「どこって、ココ」
 言って、自分がまたがった部分の後ろを、手でぱしんと叩く。
「え、そこ?そこに乗るの?」
「他に乗るとこないだろ」
「横にくっつく丸い奴じゃないのー!?」
「はあ?」
 半分パニックになりかかってる彼女の言っている意味が分からず、メットから唯一覗く目を顰めてみせる。
「大きいバイクの横にはついてるでしょ?もう一人乗れる変な奴」
「・・・・・お前が言ってるのって、もしかしてサイドカーの事?」
「多分それ」
 そう言う事かと納得し、しかし残念ながら千影のバイクにサイドカーはない。
「ああ、でっかいのとかには良く付けるけどなあ。これハーレーとか言え、883だし、あんまり付けねーだろ?」
「????」
 本気で混乱してる彼女に苦笑して、ぽんとメットの上から軽く頭を叩く。
「まあとにかく、二ケツしか方法が無いのだ。諦めろ」
「きっと死ぬ・・・」
 顔面蒼白になって、がっくりと首をうな垂れて、それでも仕方なく後ろにまたがる輝愛に、


「大丈夫だって。捕まってれば」
「じゃあ離したら?」
「そりゃあ、落ちるわ」
「やっぱりいやーー!」
 半べそかきながら、いやいやをする。

「泣くな!しばってやっから」
 言ってお互いの腰のベルトを繋ぐ。
「これで死ぬなら一蓮托生だ」
「死なない方向でお願いします」
 彼女が応えるなり、千影はエンジンをふかして地を蹴った。





「うわ―――ん」
「泣くな!」
「ひ―――ん」
「叫ぶな!」
「カワハシのうそつき――」
「はあ?」
 メット越しの大声の会話ではあるが、風にかき消されて、漸くお互いの耳に届く程度である。
 

 輝愛はよほどバイクが恐いのか、両手が白くなるまで力を込めて握り締め、千影の腰をこれでもか!と言わんばかりに抱き潰す勢いである。
 千影は、彼女に手袋を買うのを失念していた事に気付き、どこかの店で買ってやらねばと、冷静に考えていた。


「景色見てみろ。キレイだぞ」
「無理~!!」
 そんなに早く走っている訳ではないのに、この恐がりぶりに、微笑ましく思って、笑みが漏れた。
 

 これで『時間がないから急ぐ』なんて告げた日には、本気で泣き叫ぶだろうな、等と思いながら。
 

 途中見つけたコンビニで、バイクを止める。
 エンジンを切って腰のベルトを解いてやったが、一向に輝愛がバイクから降りる気配がない。
「どうした?」
 メットを取って顔を近づけ、彼女のメットも外してやる。
「トーイ?」
 うつむき加減の彼女の顎に手を沿えて、上を向かせてみると、
「あらら・・」
「う・・・・・うえ・・・・」
 しかめっ面にした瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「ごめんごめん、この先はもっとゆっくり行くから泣くな!な?」
 まさか本気で泣くと思ってなかった千影は、可笑しいのと申し訳ないのと、それでも泣き顔を見るのは二回目だ、なんて懐かしいのとごっちゃになって、珍しく眉尻を下げて笑いを堪えた。
「カワハシのアホー」
「はい、そうです。だからごめん」
 指で涙を拭ってやると、ふてくされたまんまだったが、ようやく鼻をすん、とすすって、
「ご飯おごってね」
 と、 上目遣いで脅迫してきた。
「お安い御用です、お嬢様」
 笑いながら応えて、バイクにまたがったまんまの彼女を降ろしてやる。
 予想通り、足ががくがくになっていたので、また少し笑ってしまった。



 食料調達と手洗いを済ませ、彼女用の手袋も簡易ではあるが調達し、再びバイクにまたがる。
「・・・ゆっくりにしてね」
「はいはい」
 千影は苦笑して、彼女を座らせて、自分のベルトと再び繋いで固定する。


「あーあ、目が赤い」
「誰のせいよ」
 顔を覗き込んで苦笑すると、未だにふてくされた声が返ってくる。
「俺か?やっぱり」
 無言でこっくりとうなずく輝愛。
「機嫌直せ。可奈子にブスだって笑われるぞ」


 言って、輝愛の涙の跡が残るまぶたに、予告無しに一瞬だけ唇を落とした。


「え・・・・え・・・・・!?」
「ん?行くぞ」
 千影は口を開いてぱくぱくさせている輝愛にメットをかぶせ、自分も素早くメットを被ると、彼女の腕を自分の腰に回させて、再びエンジンをふかして地を蹴った。

 
 ―――何今の、何今の!?


 必死に千影にしがみ付きながら、輝愛は先ほどとは別の意味で早い鼓動が耳につく。


「カワハシ、今何した?」


 ぽつりと呟く声は、メット越しの彼には到底届かない。


 なんで?
 あたしが泣いてたから?
 そうだよね?


 耳が熱いのを誤魔化すように、さっきよりも強く、体を千影にくっつけた。
メット越しに見た景色は、移り変わりが速かったけど、遠くの空はゆっくりで、何だかとてもきれいだった。





 いつのまにかバイクが止まり、エンジンの音が消えていた。


「ついたよ、お姫様」


 そう言って、しがみ付いたままの輝愛の頭を、後ろ手に起用にぽん、と叩く。
 ようやく顔をあげると、メットを外した千影が振り返り、
「元気?」
 とだけ聞いた。
 
 輝愛はもそもそとメットを外すと、頭をプルプルと振って、髪の毛をなびかせた。
「外すから待ってろ」
「ん」
 繋いだベルトを解くと、千影は輝愛をバイクからおろす。
 先ほども思ったが、普段より今日の千影は過保護な気がする。
 おかしいのは昨日もそうだが、今日はなんだか爽やかに、妖しい。

「わ・・・キレイ・・・」

 眼下に広がる景色に、思わず声を漏らす。
「だろ?ここは変わんねえなあ」
 横に並んだ地影も、懐かしそうに目を細めた。
「ここからちょっと歩くんだ。歩けるか?」
「うん」
 振り返る千影に、輝愛はうなずいて、彼の後を追った。


 道路があった。
 眼下に広がるのは、緑深い山々。そして紅葉の終わってしまった木々。
 抜けるように蒼い空。
 そして、小高い丘にあったのは、



 小さな、墓。



「さっき買った食い物、、出してくれる?」
 言われるままに、輝愛は急いでヒップバックから、先ほどのコンビニで仕入れたカップの酒とお菓子を渡す。
「花は持って来れないからなあ、ま、アイツは酒好きだったから、良いかな」
 言いながら、一本目の酒の蓋を開けて、墓の上からたぷたぷとかけてやる。
 二本目は、そのまま置いてやって、お菓子も横にそえた。

「カワハシ・・・・」
「ん?」
 ようやく出せた声も、続きが言葉にならなかった。
 優しい表情で振り返る彼に、輝愛は両手をぎゅっと握り締める。

「トーイ」
 手をこまねいて、おいでおいでをしている。
 しかし、輝愛の足は動かなかった。
「それ・・・誰・・・」
 震える声で訊ねる。
 喉が渇くのは、乾燥しているからとか、そう言った類の原因ではない。


「可奈子だよ」


 いともあっさり、当然のように答える。
「うそ・・・」
「本当」
 苦笑するように微笑んで、輝愛の所まで戻ってくる。


「や・・」
「トーイ?」
「やだあ・・」
 そのまま、顔を覆って泣き出してしまった。
「・・なんで泣くんだよ」
「だって・・・知らなかった・・・」
 そりゃ、言ってないんだから他から吹き込まれない限り知らないだろうが。
 しかし、まさか泣くとは思っていなかったので、千影はいささか焦っていた。
「可奈子さんがもう居ないなんて、やだあ・・」
「はあ?」
 予想外の言葉に相好を崩し、彼女の前にしゃがみ込む。
「可奈子さん大好きなのに、やっと会えると思ったのに」
 しゃくりあげながら言葉を紡ぐ輝愛に、千影の表情が変わる。
「居ないなんてやだあ・・知りたくなかった・・」
 しゃくりあげる彼女に、千影は『まいったな』と呟いて笑った。
「ははは」
「何が可笑しいの」
「可奈子を知らないお前が、可奈子の為に泣くんだな」
「だって・・」
 馬鹿にされたと思ったのか、顔をあげて千影を睨みつける。
「だって、可奈子さんのお芝居、全部見たけど、大好きなんだもん」
 そう言って、またぼろぼろと泣き出した。
 彼にしてみれば、あの部屋のビデオを彼女が見ていた事に気付かなかった自分の失態であるのだが、それ以上に、今は目の前の彼女の泣きっ面をどうにかして止めたかった。

「泣くなって」
「やだ」
「俺が泣かしてるみたいじゃんか」
「うええ~」
 どうにもこうにも、そうそう泣き止む気配が無い輝愛に、千影は愛しいものでも見るように目を細めて、彼女を攫うように抱き上げた。


「この際その不細工な顔でいいや。見せてやれ」
「うへえ?酷い!」
 輝愛を担いで墓前に戻ると、立て膝になって、足の間に彼女を降ろす。


 そのまま輝愛はぺたん、と座り込んでしまった。
 彼女を見つめて一人微笑むと、千影は『可奈子』に話し掛ける。


「久しぶり・・・・・・・もう、何年だろうな・・・・・・」


 勿論、帰ってくる言葉も声も無い。
 ただ、高台特有の風が、終始吹いている。
「もう知ってるだろうが、これが今の看板娘だぞ。輝愛って言うんだ。若くて可愛いだろ?」
 言いつつ千影は、自分の首にしがみついたままの輝愛の腕を解いて、『可奈子』に顔を向けさせる。
 

 輝愛の肩は、未だに震えていた。


「お前は何でも人より一歩先に行くのが好きだったけど、死ぬのまで先行く必要は無かったんだぞ?生きてりゃ、面白い事もっと見れたのに。勿体無いなあ、なあ?トーイ」  

 千影の両腕を抱き込んで離さない輝愛に、彼は苦笑しながら続ける。

「生きてりゃ、今頃俺らは夫婦だったのかな?人生って、本当に分からんもんだね」

 自嘲気味に呟いた千影の言葉に、腕の中の輝愛が顔を上げる。
 彼は懐かしそうに微笑んで、


「そう、可奈子は俺の愛した女だよ」


 ひときわ強い風が、三人の間を吹き抜けた。

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■こんぺいとう 4  あくとあくたーず10 ■




 人気の無い辺り一帯。
 風に揺れる、背の低い草花。
 憎らしい位に、澄み渡った青空。


 その中に響く、微かな、泣き声。





 腕を抱き込まれたまま、どれ位経ったのだろう。
 ようやくすすり泣き程度に収まった、腕の中の娘は、しかし未だに千影の両腕を欠片も離そうとはしない。
 後ろから羽交い絞めにしている様な格好のまま、地面に腰を下ろした千影は、改めて自らの腕の中の彼女を抱き締め、髪の毛に頬を押し当てた。

「俺さ、アイツの事、大好きだったんだ」

 ぽつりと、しかししっかりとした声で千影は口を開く。
「出会ったのは、今のお前くらいの時。アイツが珠子と同じ、一歳年上で、妙に世話焼きたがるクセに、何も出来なくて」
 懐かしそうに、話す声。
 顔を見ずとも、微笑んで、目を細めているのが手に取るように分かるような、優しい声。
「結局俺が世話焼くハメになって、そのまま猫みたいに懐かれて。で、俺もアイツを離したくないと、思った、と」
 千影の言葉を、ただ無言で聞く輝愛。
 どうやら、もう涙は止まったようだった。
「まだ今みたいに食っていくのがラクじゃなかった頃でさ。珠子や紅龍や勇也たちと、毎日貧乏暮らしで。
 ―――でも、ただ、ただ楽しかったんだ」
「・・・ねぇ」
「ん?」
 黙りこくっていた彼女が、僅かに声を漏らす。
 千影は唇が輝愛の頬に着く位に顔を寄せ、優しい声音で問い返す。
「・・・ううん、何でもない」
 何か言いかけて、しかし頭を振ってその言葉を飲み込んだ輝愛に、彼女には見えないだろうと、彼は今まで見せた事の無い様な優しい目をする。


『ただ、ただ楽しかったんだ』


 
 ねぇ、今より?今より楽しかった?
 昔に戻りたいって、思ってるの?
 可奈子さんが居た、昔に。

 あたしじゃなく、可奈子さんが居た―――


 無意識に、輝愛は千影の腕を強く握った。
 それに応えるように、千影も更に身体を寄せ、彼女を深く抱え込む。
「・・・本当に好きで、仕方なかった。
 アイツが死んで、しばらくは抜け殻になってたしな」
 それももう、大分昔の事になっちまったけど、と、どこか自嘲的に笑う。
 

 顔を上げれば、目の前にある、愛した女の墓。


 ・・おっかしいよな、人生なんて。あると思ったものが、一瞬にして無くなって。
 あるはず無いと思ったものが、いつの間にか自らと共にある。


「・・・不思議だよなぁ・・本来なら、居るはずの可奈子が居なくて、居ないはずのトーイが居るんだもんなぁ」
 でも、今、コイツが居て・・・
「今でも」
 千影の思考を遮る様に、輝愛が口を開く。
「今でも、可奈子さんを好き?」
 いつの間にか腕の戒めを解いた彼女が、背中を向けたまま問いかける。
 ちょうど彼女の頭越しに見える墓石に、いや、墓石の主に問いかけられている様な、おかしな錯覚を覚えながら。
「―――うん」
「だったら、何で!?」
 墓石に、可奈子に向かって、苦笑しながら頷いた千影に、輝愛は振り返る。
「ならどうして、あたしがここに居るの?」
「・・・トーイ?」
 あまりにいつもと違う調子の彼女に、千影は僅かに不安になって手を伸ばすが、輝愛は立ち上がるや後ずさりして、それを交わしてしまう。
「あたしは・・可奈子さんじゃ、ないのに・・なんで」
「トーイ、違う、聞けって」
「あたし可奈子さんになれないよ?代わりになんかなれないのに」
 じりじりと後ろに下がっていく輝愛。
 そのまま行けば墓石で、その僅か先は、崖だ。
「なんで、あのひとじゃないあたしが、カワハシの横にいるの?」
 混乱した輝愛は、恐らく自分で何を言っているかも分かっていない様で。
 彼女は、あと数歩で足場が無くなるなんて事も、きっと忘却の彼方な筈で。

 
 ―――また、目の前で死なれたら、どうする?


 想像も出来ないような言葉が、千影の脳裏に浮かんだ。


 ・・それこそ、冗談じゃねえ。二度とごめんだ!


 千影は急いで立ち上がり、彼女に手を伸ばす。


「あたしだって・・」


 輝愛の言葉が終わる前に、千影の手が届き、
 慌てた様子で、目に涙を浮かべた輝愛を、きつく抱き締める。

 彼の腕の中で、か細い声で呟いた。




「あたしだって、すきな人と一緒にいたいだけなのに」




 輝愛の言葉に、一瞬面食らったように目を見開き、赤く染まった顔を隠すように、天を仰ぎ見る。
「なぁ、よく聞けって。俺はお前を可奈子の代わりにしようだなんて、これっぽっちも思ってねーぞ?」
「ぽっちも?」
「ぽっちも」
 恐る恐る顔を上げたその瞳から、ぽろりと一粒、頬に線が描かれた。
「泣くなって」
 くしゃ、と相好を崩して、乱暴に娘の涙を手で拭う。
 彼の表情が珍しかったのか、きょとんとした顔のまま固まる輝愛。
 全くコロコロ変わる表情だと苦笑しながら、言葉を続ける。
「さっきのは、思い出・・・そう、昔話みたいなもんだ」
「でも、カワハシは可奈子さんが好きなんでしょ?」
『だったら』と言いかける彼女に、千影はいささか呆れた様な声で、
「じゃあお前、死んだらなんもかんも終わりか?お前の父ちゃんや母ちゃんや、こないだまで居てくれた婆ちゃんはどーなんだ」
「・・・あ」
「だろ?」
「うん」
 千影は眉尻を落として笑う。
「今日は、そう、確かめに来たんだ」
「たしかめる?」
 目の前の輝愛と、少し離れた所にいる、可奈子を交互に見て。
 ・・きっと、アイツだったら、墓石の上で足組んで、面白そうにこっちを見てるだろう。
 なんて思いながら。



「俺は、一生分の恋愛を可奈子に使っちまった気がするんだ。
 だから、お前に対する気持ちがなんなのか・・・」



 ・・ああ、ほらきっと今も、ちょっと意地悪いくらいに笑ってるんだ、アイツは。



「でもやっぱりそうだったんだなあ、そうだそうだ」
「????」
 一人合点している千影について行けず、目をぱちぱちしている輝愛。
「そうだよなー、結局、そーなんだろーなー」
 言いながら、バイクを置いた場所に向かって歩き出してしまう千影。
「ちょ・・カワハシー!?」
 あっけにとられつつも、急いで彼を追う。
 風で足元の雑草が揺れる。


「最初から、分かってた事じゃないか」
「だから、何が!?」
 追いついた輝愛が不満そうに口を尖がらせると、彼は青空のもと、ようやく振り返って、



「俺はお前が愛しいって事だよ、輝愛」







 しばらく、そのまま立ち尽くしていた。
 メットをかぶる為に、珍しくポニーテールにしなかった髪の毛を風に弄ばれながら。
 まさか、今言った言葉の意味が分からなかった訳でもあるまいが、こうも長い事沈黙が続くと、微妙に居心地が悪いもの事実だ。
 気まずくなって目線をそらしたままで居たが、どうにも長い沈黙に耐えかねて、千影は再び振り向いて口を開きかけて、
 絶句した。

「う・・」
「・・・お前」
「うえ・・」
「ちょ、ちょい待てお前」
「うえ~」
「ななな、何でまた泣くんだ!?なんもしてないだろ!?」
 三度、しかもいきなり泣き出した輝愛に、今度こそどうしていいか分からずに、彼女の前にしゃがみ込む。
「な・・え」
「はあ?」
「なまえー」
 ここまで来ると、最早本当に親子である。
 最も、娘分の精神年齢が、大分低いような気もするが。
「名前・・・」
 

 ―――ああ、そうか、名前か。


「まいったな・・」

 いつかその時が来たら、この子が泣き止む時が来たら、
 ちゃんと目を見て名前を呼んでやろう。

 そう、思ってたのに。
 まさかその名前を呼んだせいで、泣き止むどころか、余計に泣かせてしまうなんて。

「保護者失格だな」
「う」
 こっくり頷く輝愛のまぶたを、手で覆う。
「あーあーあーもー。そんなにだばだば泣いてたら、体中の水分無くなって死んじゃうぞ」
「え?うそ?」
 驚いて上げられたその顔に、もう零れ落ちる涙は見て取れない。
「本当。それに、目腫れちゃうだろ。とっとと冷やさなきゃ」
「・・・明日怒られる?」
「そうだな」
 怒られるのは、多分俺なんだろうけど。
 そう心で付け足しておく。
「じゃあ、冷やす」
「だな、行くか」
 言って、手を差し出す。
 輝愛がその手を取った瞬間、強い力で引き寄せられ、一瞬のうちに再び千影の腕に抱き止められる。
「ねえ、さっきの、愛しいって」
「・・・うん」
 目を閉じたまま、彼女の声を聞く。
 まさか、そう来るとは思ってなかったから、穏やかな気持ちで。




「どーゆー意味?」




「・・・・・・は?」
 大分長い時間、かかったように思う。
 ただ一言、「は?」と言う答えを返すだけなのに。
「え・・輝愛さん、その質問はいったいどーゆー・・」
「だから、意味が分かりませんと言ったのよ?」
 千影は、軽く眩暈のする頭を振って、再びようやく口を開く。

「・・・・・・・・・・・・・ですので、僕は君が大事だと、愛しいと、詳しく言うと、離す予定は無いぞと、そんな意味で言ったんですが」
 まさか自分の告白を、自分で解説するハメになるとは思わなかった。
 こんなの、告白そのものより恥ずかしいじゃないか。
 まさか何かの罰ゲームなのか。
 そう思わずには居られないくらい、情けない気持ちでいっぱいな千影に、輝愛は

「あたしもカワハシ大事よ」
「・・・輝愛」
 もういいや、コイツの天然は今に始まった事じゃないし。
 そう自分に言い聞かせて、彼女の頬に手をかけて、少し上を向かせて。
 そのまま自分の顔を近づけて行って。
 もう少しで唇が重なると思って、目を閉じた瞬間、



 ぎゅむ。



「・・・・・・・あの」
「ちゅーはだめ」
 両手で千影の口を塞ぐ輝愛の目は、真剣そのものだ。
 僅かにも、「恥ずかしがって」とか、「頬を赤らめて」とか、そー言う類のものは無い。
「なんで!?」
 思わず声を荒げて、口にかぶせられた手をどける。
 


 だって、だめって・・・・
 ずっと我慢して(気づいたのは最近だけど)
 やっと伝えて(ちゃんと伝わってなかったけど)
 アイツも応えてくれたのに!?



「だって、可奈子さんの事好きでしょ?だからダメよ」
「・・は?だからそれは解決したのでは・・それにお前も俺を・・」
「カワハシ大事よ。珠子さんもありすさんも、社長も大輔おにいちゃんも、みんな」



 ・・・・・ちょっと待て。
 


「俺はあいつらと同じ次元なのかー!?」
「なによー不満なの?」
「不満大有りだとも!!!」


 コイツの言う「大事」はオトモダチレベルか!?
 俺の意味とぜんぜん違うのか!?


「俺の気持ちはどうなるー!?俺はお前を恋愛対象として・・」
「恋愛使い果たしたんでしょ?」
「それはそーだけど、でもやっぱりそーだったんだって言ったじゃ・・」
「ん~~??でも好きなのは可奈子さんなんでしょ?」
 がっくりと、膝をついた。
 本気で、コイツは分かってないんだなと思うと、悲しいとかより、情けなくなってきた。
「もー、わがままねー」
 どっちが。
 俺よりも、お前の脳みその構造の方がわがままだろうが。
 だいたい、「好きだ」って言わなきゃ伝わらないって、アリなんだろうか。
 可奈子よりも、お前がって言わなきゃ、いけないんだろうか。
 でも、それは、そう、出来ないんだ。俺には。


 可奈子は可奈子で、輝愛は輝愛なんだから、
 比べてどっちがなんて、言えないのに。
 でも。


「好きだよ」
「あたしも」
「どんくらい?」
「珠子さんや社長やみんなの中で、一番好き」
「あ、そ」
 ひとつ大きく息を吐いて、立ち上がって、膝についたほこりを叩き落とす。
「・・・なんかどっと疲れた」
「なんで?」
「お前のせいだろ」
 首をかしげている彼女を放って、先に歩き出す。
「ほれ、帰るぞー輝愛」
「はーい」
 呼ばれて小走りに走り出す。
 彼の手にしがみ付いて、「ねえねえ」と声をかける。
「んー?」
 手を引かれて立ち止まった千影の首に手をかけて、
「ほっぺならしたげる」
 声がするより早く、彼女の唇が頬に触れた。
 その感触が柔らかくて、柄にも無くうれしくなったり、でもやっぱし煮え切らないものも残ったりで。
「はい、おしまい」
 微笑んで首から離した手を片手で掴んで、奪うように口付けた。

「・・・・あー!ダメって言ったのに!」
「知るか!どーせ芝居で浩春とも俺とも毎日するだろーが」
「お芝居と普段は違うんですー!」
「入れなかっただけ感謝しろー」
「何を?」
「秘密」

 舌を、
 なんて、言ったら殴られそうだから、言わないけど。

 バイクにまたがって、ベルトでお互いを固定して。
 メットをかぶって、くぐもったような声で、背中越しに宣戦布告。


「いつか、覚えてろよ」
「なにを?」
「何倍にもして返してやる」
「だから、何を?」
「さあな」


 輝愛がしがみ付くのを合図に、千影は地面を蹴る。
 背中の彼女が、ずっとこのままなら良いのにと思う気持ちと、早く大人になれば良いのにという、相反する気持ちを、同じぐらい胸に抱えながら。



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