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桃屋の創作テキスト置き場
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■月鬼 第一話 ―三日月夜― ■




 生まれたのは、骸の只中だった。


 辺り一面の、骸、骸、骸、むくろ、むくろ。


 其れ以外に、何も無い、世界。


 真暗い闇に、槍状の三日月が怖ろしい程、鋭利に輝く。


 俺は裸足だった。


 衣も、襤褸切れの様だ。


 月明かりで、真暗い闇が、僅かに緩和される。


 骸は、赤か、黒か。


 其の、何れかの色であった。


 血塗れた赤か。
 焼け焦げた黒か。


 俺もどちらかの色に染まって居るのだろうか。


 頬に、ぱさりと一房、髪の毛が落ちる。
 そろそろと指で摘んで見る。


 赤だろうか。
 黒だろうか。





 三日月が映し出したのは、自身と同じ、黄金。







 轟!


 風を斬る音が耳に届くより早く、俺は身を翻す。
 僅か間合いの一歩外に、女が居た。

 美しい女が。
 女の衣は、赤く染まって居た。


 地に転がる、骸と同じ、赤だ。


「月鬼・・やはり・・・お前が」
 女は悲痛な表情で言う。

 俺は『月鬼』言う名前なのだろうか。それとも、


 ただ三日月の晩に現れた、ただの鬼なのか。


 そこではたと、俺は自身が何者であるかすら知らない事に気付く。
 名も、姿も、身分も、


 人間であるかさえも。


 女は俺の知らぬ俺を知って居る様だった。

「私を殺すか、鬼よ、さあ――」
 女は握っていた小柄を落とし、両手を大きく広げる。
「お前が鬼であるのならば、私を殺せ」
 美しい女は、其のまま少しずつ俺に近寄って来る。


 赤く染まった衣。

 流れる黒髪。

 この女も、骸と同じ色をして居る。

 俺は恐らく常人よりは三倍は長い爪で、女の胸を一突きにする。
 赤が飛び散る。


 俺自身も、その赤に染まる。
 漸く、周りの物全てと同じ色になれて、俺は妙に安堵する。


「―――愚かな」


 女がぎりっ、と奥歯を噛み締める。
「其れがお前の答えか!」
 何の事だか分からないが、何だか不愉快な気分になる。
 俺は女の胸に右腕を突き刺したまま、崩れ行く女の身体を支えて居た。


「愚かな、鬼よ!忘れたか!」
 女が吠える。
 額に浮かぶ雫は、苦悶の為か。
「私のこの血と引き換えに、私はお前を縛する!そう言った筈だ!忘れたのか!」
 女は、何時しか泣いていた。


「忘れたのか!月!」


 びくり、と俺の身体が跳ねる。


 女、女、女、おんな、おんな、

 このおんなは、

 そう、この女は、


 あやめ―――――


「・・・ああああああああああ!!」
「・・思い出したか・・・でも、もう・・遅い。お前は私の地で・・縛され、眠りに着く・・・」
 女はずるずると力を抜きながら、地に落ちて行く。
「あ・・・あ・・・・あ・・や・・・め・・・」
 ようやくそれだけを想い出したかの様に、呟く。
 女は、微笑んだ。


「お前一人では行かせぬ。共に眠ろう。月鬼よ―――」
 其処で俺は、意識を手放した。

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■月鬼 第ニ話 ―追われし者― ■




 一人の僧侶が、水に打たれている。
 禊をしているのだ。


 年の頃なら二十代初め、黒髪を後ろで一つに束ね、手は印を結んでいる。
 流れ落ちる水音に消されぬ、凛とした声。
 呪言を唱えている様だ。


 手にした錫杖が、しゃら、と鳴った。


 頃は早春。
 漸く雪も溶け、若芽達が息吹を感じさせて来た頃合いである。
 しかし、気配は似合わぬ程に澱んでいた。



 ――何か、善くないモノが、来るのか・・?



 閉ざしていた瞼を持ち上げ、漸く視界を開いた彼は、半眼になって辺り一帯の空気に目を凝らす。
 しかし、それも束の間。


「―――まあ、私には無関係なので、良しとしよう」


 そんな事を言って、再び瞼を落とし、呪言を唱え始める。
 遠くで何かが疾走する音が聞こえる。
 どうやらこちらに近付いて来ている様だと悟って、僧侶は再び重い瞼を開いた。
「・・・・面倒な・・」
 聖職者ともあろう者が、有るまじき発言である。


「人の邪魔をしないで頂きたい」
 そう言うと、しゃら、と錫杖を構え、濡れた髪の毛を後ろに掻き揚げた。



 刹那。



 奥の茂みがガサガサと揺れたかと思う間も無く、その茂みの奥から、何かが飛び出して来た。


 飛び出て来たモノは、そのまま地面に着地し、眼前に佇む自分をひたり、と見据えて開口し、


「あんた、誰」


 と、極力端的に疑問符を投げ掛ける。
 あまりに無防備な問い掛けに、僧侶はやや出鼻を挫かれた様子で、しかし、問われた問いに答えるより先に、同じような問いかけを返す。


「あなたこそ、何ですか」


 同じ様に、だが考え様によっては相手より失礼な言い方で問い返す。
 彼女は地面に猫の様に着地した態勢のまま、僅かに彼を見つめ、
「・・・もしや僧侶・・?」
「それ以外の何に見えるんですか」
 彼は呆れたように僅かに肩を落として言う。


「ただの変な奴」
「・・・・・」


 間髪いれずに即答され、いささか惨めな心持になる。
 しかし、それで四肢の緊張が取れる訳ではない。



「・・・・あなた、何を連れて来たんです・・」



 僧侶の表情が、俄かに厳しくなる。
「え?」
 地面に着地したままの態勢だった彼女は、いぶかしげな顔で彼を見上げる。
 しかし、僧侶の視線は彼女をすり抜け、その奥にわだかまり、こちらへ近付いてくる者に向けられている。
 彼女が何か言葉を発しようと、口を開きかけた瞬間。


「こちらへ!」
「へ?」


 相手の異論を聞く間も無く、彼は彼女の二の腕を鷲掴みにし、自分が今居た水の中に引きずり込む。
「きゃあ!」
 体勢を崩した彼女は、水に足を取られ、しかしたたらを踏もうにも地面は無く、引き寄せられた僧侶にしがみ付く様な格好になる。
「ちょっと、何!?」
 非難の声を上げるが、小柄な彼女は彼に片手でがっちりと抱えられ、そこから逃れる事もまま成らない。


「静かに」
 右手で錫杖を握り、その中に彼女を抱え込む様にして居る彼は、彼女の口を塞ぐのに、自分の頬を無理やり押し付ける。
「んぐ」
 眉間に皺を寄せた彼女を見向きもせず、僧侶は錫杖を構えなおし、口の中で小さく呪言を紡ぐ。
「水の中では、動きが鈍る」
 彼女への説明なのか、ただの独り言なのか、耳元で囁く様に。
 その言葉で、彼女は抵抗するのを止め、茂みの奥に目を移す。
「・・・・何・・?」
「静かに」
 冷淡な声で一喝し、彼は錫杖をしゃらん!と水に叩き付ける。
 瞬間、茂みの奥から闇色の塊―としか形容のしようが無い何か―が飛び出して来て、一直線に二人を目指し、空を斬る。


「破!」


 口の中で結んでいた印を放ち、彼女を抱える腕に力を込め、僧侶は気を吐いてその闇色の『何か』に向けて、錫杖を突き立てる。


 ぎいいいいいっん!


 おおよそ表現しにくい音が鼓膜を突き、錫杖が震え、彼は腕に力を込める。



「弾けろ!」



 彼がそう吠えた瞬間、その『何か』は凄まじい轟音と共に、虚空に四散した。



 しばらくその場には、言い知れぬ緊迫感が流れたが、僧侶が一つ息を吐き出し、彼女を腕から解放した。
「・・・・・何、今の」
 ようやく硬直から抜け出した彼女が、かすれた声を絞り出す。

 彼はしゃらん、と涼やかな音を錫杖で奏でる。
 濡れそぼった髪の毛を、再び掌でかき上げ、彼女の顎を反対の手で掴み、まじまじと彼女を見つめる。
「何の真似よ、僧侶」
 


 ―――別段、この女から邪気を感じる訳でも無い、か―――


  
 彼は手を彼女の顎から外すと、元の歳相応の顔に戻って、


「蒼志です。僧侶は名前ではありません」
「先に名乗らないから、あんたが悪い」


 自分もびしょ濡れになりながら、しかし彼女は水を払おうともせずに。
「蒼志、今の、何?」
 あまりに自然に、しかし図々しく話しかける彼女に、蒼は苦笑を隠さずに、
「あなたが、何か悪いモノかと思ったもので」
「何だそれ」
 彼女は眉を顰め、訝しげな顔をし、ここでやっと自分が濡れ鼠なのに気付いたのか、髪の毛を手で絞った。
「あなた、何故あんなものに追われて?」
「知るか」
 彼女は不機嫌そうに水の中から上がり、振り返って微笑みもせずに続けた。
「つばめだ。私は、つばめ」
「つばめ、殿ですか」
 蒼志も彼女を追うように水から出て、背中を向けている彼女を再び半眼で眺める。



 ―――仕方ない―――



 蒼志は心の中で呟くと、僅かに傾いた太陽を掌越しに眺めた。

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■月鬼 第三話 ―光る森― ■




 例の二人は、着物を木の枝にかけ、乾くのを待っている所であった。


 最も、お互い異性同志と言う事もあり、さすがに下穿き一枚、などと言う姿では無かったが。
 つばめは髪の毛を縛っていた朱色の紐を解き、手で布を絞る様に、髪の毛の水滴を絞っている。
 蒼志は辺りの小枝を拾い集め、小さな火を起し終えた所だった。


「つばめ殿は、何をされている方なんですか」
「何って?」
 蒼志に顔も向けずに、一心不乱に着物の水を搾り出しながら、辛うじて声を返す。
「まあ、平たく言えば職です」
 蒼志は何やら口の中でぷつぷつと呟き、木の幹に立て掛けて置いた錫杖を手に取り、地面に垂直に突き刺した。
「職って言われても・・・って、あんた何してんの」
 漸く振り返り、彼の動きを見るなり、彼女は怪訝そうな顔になる。


「見て分かりませんか」
「変な棒地面に刺して、楽しい?」


 つばめは錫杖を地面に突き刺している蒼志を上から下まで眺めた後、不審がるような目線を投げる。
 蒼志は、彼女のあまりに見たままそのものな言葉に、やはりか、と苦笑した。
「楽しくてやっている訳ではありませんよ」
「じゃあ頭が可笑しくなったのか」
 またも間髪入れずに突っ込まれ、一瞬頭を抱えそうになる。


「可笑しくもなっていません。これは、そう、結界です」
「結界?」


 つばめが声を一段低くして問い返す。
 蒼志も幾分声を抑えて、「そうです」とだけ答えた。
 つばめは彼の起してくれた焚き火のお陰で乾いた着物に再び袖を通し、火を抱える様に蒼志の向かいにあぐらをかいて座り込んだ。
「・・・・せめて足は閉じなさい」
「喧しい奴だな」
 目のやり所に窮した蒼志は、ため息をつくように彼女に告げ、彼女は不満をたれながらも、両足を両腕で抱え込む様に座り直した。

「・・・何から隠れてる」
「何か、です」
 つばめは自分が馬鹿にされていると思ったのか、むっとした表情になる。
 その彼女に蒼志は再び苦笑し、真剣な面差しで続けた。


「あなたが先程連れて来た、『何か』から隠れているのです」
「連れて来た訳じゃない。勝手に着いて来た」
 異論を唱える彼女に、しかし彼は両断する。
「それでも同じ事なんですよ」
 そうはっきり言い切られ、つばめは面白く無さそうに拳を握り締めた。
「・・・今日が、初めてではないでしょう?」
 蒼志がつばめをひたり、と見据えて。
「・・・」


「アレに襲われた、もしくは追われたのは、今日が初めてと言う訳ではないでしょう?」
 ぱちぱちと、火の粉の爆ぜる音だけが、夜の帳の下りかけた一帯に響いた。
 彼女は目を見開いたまま、
「・・・・何でお前に分かる・・」
 と、小さく呟いた。
 そして、その後の言葉を続けられないでいる。
「アレはあなたを知っていた。だから、そう思っただけです」
 つばめは面白くなさそうに眉間のしわを濃くする。
 そのまま蒼志を見詰め、「さあ話せ」とでも言うように、彼を見据えた。
 彼もまた、真剣な面差しをそのままに、よく通る質の声を落として、



「今宵は、何かが起こります」



 迷いも無く、そう言い放つ蒼志。
 つばめは、不審げな表情を崩さぬまま、しかしわずかに腰を浮かしかけた。
「・・なんでそんな事が分かる」
「これでも一応仏に仕える者の端くれです。神託、と言うと大袈裟ですが、――そう、虫の知らせ、とでも言いましょうか」
「何だって同じだ」
 彼女は不機嫌そうに言うと、再び腰を降ろした。


 辺りはもう暗い。
 山の中は、空気が冷えるのが恐ろしく早い。
 昼間は暖かい位だったのに、今では火に当たっているのに背筋がぞくりとする様だ。
 無意識の内に、彼女は自分の腕に爪を立てていた。


「恐らくは」
 そんな彼女を見ていないかの様に、彼は言葉を続ける。
 朗朗とした口調は、この夜の帳の降りた闇の中では、恐ろしくすら響く。
「あなたにも、関係があるかも知れません」
 ひたり、と、彼女を見据えて。
「・・・・・何・・?」
「あなたにも、これから起こる『何か』に関わりがある、そう言っているのです」
「何で、あたしが・・」
 ごくりと唾を飲み込む音が、耳にやけに大きく届いた。
「気付いているのでしょう?あなたも。つばめ殿自身も、何か起こるであろうと」
 彼女は苦虫を噛み潰したような顔になり、勢い良くその場に立ち上がると、激昂するように低い声を絞り出す。
「なんでお前に分かる!?あたしも知らないことを、何故さも知ってるうように言う?あたしは何も知らない!関係ないだろう!」
 奥歯をかみ締めたままの彼女の表情は、それこそ不愉快そのものだ。
 しかし蒼志は静かに一喝する。
「しかし、あなたが関わるのは目に見えているし、それを感づいているから、あなたも不安なのでしょう?」
 つばめが二の句を告げられないでいると、蒼志の表情が一段厳しくなる。


 しかし、その睨み合いは、僅かで終わる。
 蒼志は弾かれるように空を見上げ、
「・・・まさか・・」
 空を見上げたまま、そう僅かに呟く。
「どうした」
 明らかに狼狽した様な彼に、つばめも同じ方向に目線を向ける。



 そこに映ったのは、徐々に消えていく月。



「・・・なんだあれ・・」
 つばめが、掠れる声をやっと縛りだして問う。
「さあ・・なんとも、しかし」
 蒼志はそう言ってすっ、と目を細め、しゃらん、と手にした杓杖で、ある一点を指し示す。
 そこには、ぼう、と浮かぶ様に淡く、怪しげな光を放つ一帯。
「森が、光ってるのか?」
「あの一帯に、何かがある事だけは確かなようです」


 蒼志はつばめを見詰め、
「行きましょう」
「分かった」



 そうして、二人は漆黒の闇の中、怪しげな光を放つ場へ急いだ。



 空に浮かぶ月は、徐々に黒い影に覆い隠されていく。
 まるで、月が闇に食われるかのように。

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■月鬼 第四話 ―妖、現る― ■




「・・・気持ち悪い・・・」


 つばめは顔を顰め、眉間に皺を寄せ、前傾姿勢になりながら、何とか立っている状態だった。
「ふむ・・」
 蒼志は事も無げに辺りを見回し、然るべき一点を見詰める。

「やはり、今宵動きますか」

 ぽつりと、つばめにすら聞こえない程の声音で、彼は含んだように呟く。
「おい・・・あおし・・・」
 苦しげな声に振り向けば、今にも倒れそうな程真っ青に顔を染めた彼女の姿。


 ――いけない、失念していた。


 彼は一瞬しくった、と言う様な表情を作ったが、余裕の皆無な彼女に見咎められる事は無かったようだ。
「なんだ・・・これ・・なんでお前・・平気なんだ・・」
 切れ切れに言葉を紡ぐつばめ。
「一般人には無理も無い。この瘴気では、気分も害するでしょう」
 しゃあしゃあと言ってのけ、蒼志は膝から崩れそうなつばめを、錫杖を握った左腕に抱え、空いた右手で彼女の背中を強く叩いた。


「いてえ!」
「失礼」


 思いもかけずに放たれた一撃に、彼女は食って掛かる。
「いきなり何する、くされ坊主!」
「で、どうですか?」
「何が!」
 蒼志は半眼で呆れた様に彼女を見て、
「少しは楽になったんじゃないですか?」
「あ・・」
 言われて漸く思い至ったのか、つばめは身体をかさこそ動かして、

「本当だ」
「なら、良かった」
 にっこり笑う蒼志に、彼女は礼のつもりなのか何なのか、
「・・・・蒼志もたまには役に立つ」
「頻繁に、では無いんですね」
 これで礼を述べているつもりなのだろうかと、蒼志はここでも苦笑するしか無い。
 最も、彼女に礼を述べている気があったかどうかも、定かでは無いが。


「ああ、あそこに」 
 蒼志は錫杖でしゃらん、と目当ての場所を指し示す。
「どうです?一番光が強い」
「見りゃ分かる」
 一寸の間も置かない突っ込みに、蒼志は果たして彼女に緊張感と言うものは備わっているのだろうかと、不要な心配すらする始末だ。
 が、隣に佇むこの細い体躯の娘の目は、それら全てを射抜く程の鋭さを持っていて、やはり杞憂であるか、と小さく息を吐いた。



 月はとうに闇に喰われてしまった。
 雲に隠されているとか、そう言った類では無い。
 文字通り、月は闇に喰われていた。



 蒼志とつばめは、光の強い一点に歩みを進める。
 徐々に森の奥から漏れる光が強くなって行く。


 刹那、風の渦が舞い上がり、二人の視界を遮る。
「!」
 蒼志は無言でつばめを抱え、その疾風から彼女を庇う。
「よう参られた」
 微笑むような優美な声である。
 しかし、その姿を蒼志は、未だに確認出来ていなかった


 ・・・しくったか?
 

 内心小さく舌打ちし、彼は腕に抱えた彼女をそっと地面に降ろし、小さく息を吸い込む。
「よう参られた、月の雫持つ者よ」
 さら、と、聞きなれない音が辺りに流れ、それは姿を現した。


 艶やかなになびく黒髪。
 しなやかに伸びた四肢。
 美しく伸びる睫毛に、微笑みを湛えた紅い唇。
 妖艶な眼差しはしかし、全てを射抜くような冷徹さを併せ持っている。

 女の形をしていた。

 しかし、それを女と呼ぶには、いささか疑問が残る。

 纏っている気配が、人のそれとは異なっていた。


「鬼か――」
 蒼志は険しい顔で呟いて、半歩後ずさる。
「いかにも、この戯妖邪(ぎようじゃ)、純なる鬼よ」
 そう言って、ころころと鈴を転がしたように笑う。
 その様が、如何にもこの瘴気に満ちた場には不釣合いで、しかし彼女―戯妖邪―はそれこそ嬉しそうに目を細めるものだから、つばめはぞっと寒気を覚えた。


 美しい者とは、狂気も同時に持ち合わせてる。


 いつかどこかで聞いた言葉に、今なら納得できそうだった。


「月の雫とは何だ、鬼よ」
 蒼志は錫杖を構え、つばめを庇う体制のまま、微動だにせず問い掛ける。


 辺りには瘴気が充満している。
 黒い雲は流れ去ったが、闇に喰われた月は姿を現さない。

 月明かりが頼りのこの森の中では、僅かな光の陰りも、視界に大きく作用する。

 つばめはぶるっと身震いをして、腰に仕込んだ短剣を後ろ手にそっと引き抜いた。
 瞬間、戯妖邪が走る。


「主等の雫で、今宵我が王がお目覚めになる!」
 そう吠えると、一足飛びにつばめの元まで飛ぶ。
「ひっ!」
 あまりの速さに驚いた彼女は、いささか間抜けな声を出して走り出す。
「蒼志!」
「つばめ殿!」
 彼女の悲鳴じみた声に、蒼志も焦って後を追う。

 ひゅうひゅうと、喉から空気が漏れるような音をさせながら、戯妖邪は美しい微笑みのまま、つばめに襲い掛かる。
「なんでだ!?」
 つばめはすんでの所で攻撃を交わし、何故だか自分を襲ってくる女――いや、鬼に怒鳴りつける。
「何であたしなんだ!?蒼志じゃないのか!?」

「つばめ殿!」

 追い付いた蒼志が、錫杖で応戦する。
 きいいぃぃぃん!
 鼓膜をつんざくような音が、空気を振動させる。

「法師、この女を守りたいか」
「問われるまでも無く!」
 戯妖邪の台詞に、歯軋りするような声音で蒼志は叫ぶ、
 恐ろしいまでの速さ。
 戯妖邪は重力すら感じないようにするりと宙をすり抜け、二人に襲い掛かって来る。

「法師、主はいささか邪魔じゃ」

 戯妖邪はそう言うと、一つぱきん、とその指を鳴らす。
 直後、戯妖邪の背後には無数の鬼が現れる。

「げっ!」
「くっ」
 目を見開いて青くなるつばめに、錫杖を強く握り、口の中でなにやらぷつぷつと唱え始める蒼志。

「ほれ、逃げろ小娘」
 戯妖邪は執拗につばめを追う。
 蒼志は無数の鬼をさばくので手一杯である。とてもではないが、つばめの援護には回れそうも無い。

「つばめ殿!逃げて!」
「でもお前は!?」

 必死に叫ぶ彼に、同じく戯妖邪から逃げ回りながら叫ぶ彼女。

「あなたが居ては戦えない!早く遠くへ!」
「くそボーズが!死ぬなよ!」

 叫ぶなりつばめはその俊足を生かして走り出す。
 戯妖邪が後を追う。


 ・・・足手まといになってたまるか、くそボーズ!


 蒼志の言葉に、自らの無力さを歯噛みしながら、彼女は彼に言われた通りに走った。

 しかし、背後からは戯妖邪が追ってきており、その距離は離すどころか縮められて行く。
「くそ」
 舌打ちして限界まで速度を上げる。
 この速さでは、そんなに長く走れない。しかし、アレを撒くことが出来さえすれば――


 ひゅっ


 空を切り裂く音とともに、つばめは地面を転がる。
 急いで立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
「なに・・」
 自分の足を見て、一瞬のどの奥が締まった。

 彼女の左の太ももは、ざっくりと裂け、そこから鮮血が伝っていた。
「もう終わりかえ?月の雫」

 戯妖邪がゆらり、と姿を見せる。
 相も変わらず微笑みを湛えた妖艶な女の形で、だ。
「なんでだ」
 つばめは低い、腹から搾り出した声音で。
「なんであたしを追うんだ」
「お前が、雫だから」
 戯妖邪は、別段表情も変えずに言い放つ。
「雫・・?なんの話だ、あたしはつばめだ」
「愚かな娘」
 足の痛みに、額に脂汗を浮かべながら叫ぶ彼女に、蔑むような眼差しを投げつける戯妖邪。
 そしてその手に握った剣を、つばめ目掛けて振り下ろす。
「ふんぬっ!」
 必死に気合を突っ込んで立ち上がり、闇雲に走り出すつばめ
「愚かな雫」
 戯妖邪も彼女の後を再び追いはじめる。


 ・・なんでだ、なんであたしが?
 あたしが鬼に何をした?
 雫って何だ?
 あたしと鬼に、なんの関係があるってんだ!





 気が付くと、何かの前に立っていた。
「ここ・・なに?」
 誰にとも無くつぶやくつばめ。
 どうやら、必死に走っているうちにたどり着いたらしい。
 神社のようだった。
 鳥居が真っ黒いシルエットの様に浮かび上がる。


 何故だか分からないが、背筋がぞくりとした。


 戯妖邪の気配は無い。
 しかし、油断は出来ない。
 でももう彼女には、走る気力も体力も残っては居なかった。


 神社の境内に入り、奥にある小さな神殿の観音開きの扉を開けて、中に入る。そのまま不遜にも本尊らしき物体に背中を預けて、ずるずると地面に倒れていく。

「ちくしょう・・頭ぐるぐるする・・血、流しすぎたのかな・・」
 止血の為に、力の抜けた手のひらを思い切り押し付ける。痛みで顔が酷く歪む。

 空を見上げると、闇に喰われていた筈の月が、今は僅かにだがその姿を現している。
 今まで月明かりが無かったせいか、それがやけにまぶしい。
 正直、恐ろしいとは思わなかった。むしろ何か、忌まわしく感じた。
 つばめはすぐに目線を地面に戻す。

「くそボーズ、死んだかな・・」
 痛む足を押さえつけながら、脂汗を拭いもせずにつぶやく。

 月明かりが彼女を照らした。
 つばめには、一条の光の線が、自らに向けて振ってくるような感覚であった。
「なんだ・・?」
 ようやく起き上がり、光の行く先を辿ると、そこは今彼女が背もたれにしていた場所である。

「・・?」
 彼女は目を細めて、そこに顔を近づける。
 昼間ならこんな苦労はしなくてもいいものを、と、内心毒づきながら。

 ようやく明るさに目が慣れ、徐々に視界を取り戻した彼女の目に映ったものは、


「・・・・・・人・・?」


 眉を寄せてつぶやく。
 神殿の奥にあったものは、大きな木の蔦の塊のようなものと、その間からのぞく顔のようなもの。
「木なんだろうけど、気持ち悪いもんだな」
 木の幹の凹凸が、丁度人間の顔のような格好になっていて、それが神殿の奥の本尊があるべき場所に収められているもんだから、気持ちの良い感じではなかった。


「でもこれ、本当に人間に似てる」
 彼女は恐る恐る手を伸ばし、それに触れる。
 しかし、伝わってくる感触は木のそれで、温度などあろうはずもない。

 なぜかそれがひどく気にかかり、もっと近くで見ようと、両手を伸ばしてそれに触れ、自らの頭を木の蔦の中に突っ込んで、己の顔と顔らしきものを対峙させる。目を凝らして、その顔を見詰める。
「・・・気持ち悪いけど、綺麗だ」


「見つけた。月の雫」

 いきなり空気が変わる。
 つばめは四肢を翻し、声の方に向き直る。
「雫が月を見つけた」
 戯妖邪は、抜き身の剣をぶらさげて嬉しそうにくすくすと笑っている。
「くそ」
 つばめは内心ほぞをかむ。
 気配を消していた訳でもなさそうな戯妖邪に、何故気付かなかったのか。
 それ程までに、血を流した覚えは無かったが、これは案外死ぬかも知れない。



「雫が自ら月を見つけた。我等が王は目覚める時が来た」



 朗朗とした口調で戯妖邪は語る
「雫?月?あたしはそんなの知らん!」
「雫が知らなくても、お前は雫!」
 戯妖邪はそう吠えると、一気につばめに襲い掛かる。
「ぎゃん!」
 悲鳴が喉の奥ではじめる。
 思ったように体が動かない。
 足がもつれる。



 ここで、死ぬ。



「雫をちょうだい、月の雫」


 ざしゅ!


 肉を引き裂く音と、血が飛び散る音。


 悲鳴すら出ない。
 目の前には恍惚の表情の戯妖邪。
 空には喰われた筈の月が舞い戻り、
 遠くで蒼志の声がする。


 体が動かない。
 声が出てこない。


 背後に居るのは、


 誰―――?

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■月鬼 第五話 ―鬼、降臨― ■




 つばめが振り返るより早く、戯妖邪は彼女の目の前に跪く。


「我が、王」
 そう言うと、戯妖邪は深々と頭を垂れた。
「・・?」
 つばめは太ももから流れ落ちる血を手で押さえ付けながら、血が足りずに眩暈のする頭を、ようやっと何とか回す。
「・・・・・・・誰?」
 彼女が思わず口にする。
「つばめ殿!ご無事か!?」
 頭を垂れる戯妖邪の後方から、焦った様な蒼志の声。
 そして程無くして、走り来る彼の姿が見えた。


「お前達、我が王のお目覚めじゃ」


 戯妖邪は言うと、再びばきん、と指を鳴らす。
 刹那、空間が引き裂かれた様に、辺り一面無数の雑鬼が現れる。
 周りを、鬼に囲まれてしまった。
 蒼志はごくりと喉を鳴らし、微動だにせず、視線だけでつばめを確認する。


 ・・・・良かった、まだ死んではいないようだ。


「永きに渡り、お待ち致しました。我等が、王」
 戯妖邪の言葉に、一面に群がる鬼共も、その『王』とやらにひれ伏す。
「王・・・」
 つばめは呟き、己の背後に佇む影に目を凝らす。




「我が王、月鬼」



 戯妖邪が頭を垂れる。
 背後に蠢く無数の雑鬼共も、雄叫びとも歓喜に沸く声ともつかない、低い声をあげる。
「参りましょう、我が王、月鬼」
 その声に、『王』はぴくりとも反応せず、ただただ、自らの眼前でひれ伏す鬼共を見る。
 その瞳には、何一つの感情も、つばめには読み取る事は出来なかった。
 もはやつばめ等目に入らぬのか、戯妖邪は立ち上がり、『王』に忠誠を誓う姿勢でまさに頭を持ち上げ、その「王」とやらに、


「参りましょう、我らと共に」


 刹那―――


 ざしゅ



 無慈悲に、あまりにも無慈悲な音と共に、彼女の差し出された腕は、千切られた。
「何故・・・何故・・!?」
 思いもよらなかったであろう「王」の行動に、戯妖邪はたたら踏みながら後退し、苦悶の表情で「王」を見詰める。
 その言葉に応えもせず、つばめの背後のそれは、無造作に、命無きものを扱う様に、ただ、彼女を睨め付ける。



 明らかに人間では無いその容姿。
 

 身の丈ならば、およそ六尺。
 耳は人間のそれより長く尖り、
 ぬらりと伸びた爪。
 意識を宿さぬような、血色の眼。


 その流れ落ちる頭髪は、今し方再び姿を現した月と同じ、黄金。
 頬には亀裂が入り、衣も襤褸切れの様だ。


 つばめはぞくりとする。



 ああ、これが鬼か、と。



「誰だ・・・・・」
 それは、低く、地を這う様な声音で呟く。
 頭に直接響いて来る様な、不思議な声。
 恐ろしい筈なのに、気圧されて動けない筈なのに。


 彼女は、確かにその声に酔いしれていた。


「私を呼び覚まし者は、誰だ」
 すうっ、と目を細め、ゆっくりと睨め付ける様に辺りを見回す。
 片腕を失った戯妖邪は、先ほどより退いた場所で跪き、肩で荒い呼吸を繰り返している。
 不思議な事に、傷口からは一滴の血液も流れ出ては居なかったが。

「つばめ殿!」
 蒼志が、雑鬼を尺杖で薙ぎ払いながら、彼女に近付く。
 その彼の姿を目には留めたものの、つばめは動くことも、声を発する事も出来ないでいた。
 自らの真後ろに、鬼の王が居るのだ。


 温度すら感じる距離で、相手の息遣いまで届く場所で。
 下手に動く事は、即、死に繋がる。


 こくりと喉を鳴らした瞬間、月光が丁度彼女の顔と、背後のそれの顔を照らし出す。
 そこで漸くそれはつばめに気付いたのか、ゆるりと首を動かし、その目をわずかに歪めた。
「そう、お前か。お前が、私を」
「何の事だ!あたしは知らん!」
 恐怖のおかげで、何時もより声が大きくなる。
 血を流しすぎた体は震え、歯の根もかみ合わなくなりそうだった。
「お前は」
 『王』はつばめの顎に手をかけ、さして力も加えた様子も無く、彼女を持ち上げる。
「はなせ・・っ!」
 地面から離れた足をばたつかせ、両手で顎にかけられた手を解こうとするが、びくともしない。
 『王』は月光に照らされた彼女の顔に自らの顔を寄せ、目を細めて凝視する。



「お前は、私を知っているな」



「・・・な?」



 怒りとも焦りともつかぬ表情で、『王』は血色の眼を眇める。
「お前は、私を知っている」
「お前なんか知らん!」
「お前故、私は目覚めた」
 つばめの言葉を無視して、それは呟く。
 月光が、再び雲に隠され、彼女を照らしていた光もまた、消えうせる。
 刹那、『王』は彼女を持ち上げていた手に力を込め、
 先程までの穏やかとも言える口調から、一気に冷淡な口調に変わり、

「ならばその目で見よ。愚物が」
 言うなり、つばめを地面に叩きつける。
「ぎゃっ!」
「つばめ殿!」
 蒼志は叫ぶより早く、駆け出す。
 未だ起き上がらずに地面に突っ伏している彼女に駆け寄ると、片腕で彼女を抱え、左手で尺杖を『王』に向かって振り下ろした。


 がぎぃ!


 鈍い音で、尺杖を爪で受け止める『王』
 蒼志は顔をしかめ、つばめを抱えたまま一歩後ろへ跳ぶ。
「見るが良い、我が姿」
 『王』は呟き、蒼志を片手で跳ね除けると、苦痛で意識の朦朧としたつばめの髪の毛を掴んで引き上げ、その鋭い爪を頬にあてがう。
「退け、鬼よ!」
 背後から蒼志が破魔の護符を飛ばすが、『王』に辿り着く前に、虚空で燃え尽き四散する。
「効かぬか!」
 憎しげに言葉を吐く蒼志に、『王』は僅かに振り向き、
「邪魔だ」
 と片手を蒼志に翳す。
 瞬きする暇もあらばこそ。
 蒼志の身体が一瞬疾風の中に消えたかと思うと、彼は地面にがくりと膝をついていた。
 その着物は至る所に鋭利な刃物で切り裂いた酔うな傷があり、布は赤く染まっていた。
 『王』は面白くもなさそうに再びつばめに向き直ると、彼女の腕を爪で切り裂く。
「ぐっ・・!」
 痛みによって覚醒した意識の中、眼前にある『王』の顔。
「・・はなせっ・・・・!」

 その『王』の表情が、一瞬、曇る。
 彼女を掴む手の力が緩み、つばめは地面に足をつく。
 しかしそのまま逃げ出す力が残っている訳も無く、ずるずると地面にへたり込む。



 ・・なんだ・・こいつ・・・なんで、離した・・・?



 息切れしてロクに働かない頭で、彼女は呟く。
「あ・・・・ああ・・・・お前は・・・」
 『王』の表情は、徐々に驚愕と絶望との入り交ざったようなものに変わっていく。


 半眼だった瞳は見開かれ、体躯は小刻みに震える。
 鬼がこんな風に、ましてや鬼の王たる目の前のこれが、死にかけの無力な自分の前で狼狽する理由が分からず、
 つばめは、もしやもう既に自分は死んでいて、見ているこれは幻ではないかとすら思い始めていた。
「お前は・・・・・・・・誰だ・・・・!」
 『王』の体は震え、つばめをみつめる瞳には先程までの狂気は見て取れない。


 まるで、子供か犬猫の脅えた瞳のようですらあった。
 その様子が可笑しくて、つばめは視線の定まらないまま、腕を持ち上げる。


「はは・・・なんだ・・・・そうか・・・」
 力の入らない腕を、持ち上げて、




「・・・お前も・・・・お前が恐いのか・・」




 そう無意識に呟くと、『彼』の頬に、触れた。


「あ・・・あ・・・・・・・・」
 言葉とつかない音を発する『彼』に、彼女はふわりとわずかに微笑み、そこで意識を手放す。
 彼の雄叫びが、木霊した。

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