桃屋の創作テキスト置き場
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
■こんぺいとう 4 あくとあくたーず2 ■
「おはようございまーす」
「はよーす」
いつもの様に挨拶して、並べられたパイプ椅子に腰掛ける千影。
その後一瞬遅れて、彼の隣の椅子にちょこんと座る輝愛。
その二人の後にも、何人かが挨拶をしながら椅子についた。
全員が着席したところで、演出担当である笹林から声がかかる。
今日は、顔合わせなのである。
劇団いづちの公演も無事に千秋楽を向かえ、アクションチームメンバーは、ほぼ休む間も無くこの日を迎えた。
「じゃ、配役は――」
ろくすっぽ自己紹介しないまま進行する。
まあ、全員が顔見知りなので、必要ないと言えば必要ないのだが、普通顔合わせでは、各自の紹介の様なものを行うのが通例である。
「その前に、今回の演目ですが」
珠子がいたずらっぽく言う。
今の今まで『言ってなかったわね』等と言って微笑んでいるが、『言わなかった』のは、この当の珠子である。
「再演になるんだけど、本は書き直してもらいました。演目は『月鬼』でーす」
珠子が至極、彼女にしては真面目な口調で言う。
瞬間、千影の眉間に、明らかに皺が寄り、肩がぴくりと震えた。
珠子は千影のその動きを目だけで確認してから、しかし、彼女はそんなもの存在しないとでも言うかのように、順々に配役発表をして行く。
「結構前回の初演の時と、うちもメンバー換わってるから、再演色は薄くなると思うわよ」
なんて付け加えながら。
「アヤメ役、有住浩春」
「蘇芳役、橋本勇也」
と、順々に名前を呼んで行く。
「今回座長の月鬼役、前回同様、川橋千影」
珠子の声に、未だ憮然としたまま、配られた台本に目を落としている千影。
珠子はその姿を少し苦笑した様に眺めながら、最後に残った役名を口にした。
「ヒロインのつばめ役、高梨輝愛」
「は?」
「!?」
輝愛が思わず声を上げる。
千影は最早声も無く、身体を硬直させる。
無理も無い。
まだ入団してわずかばかりの輝愛に、ヒロイン、要するに主役級の役を与えたのだ。
普通に考えれば、異常である。
そして千影は千影で、別の意味で苦虫を噛み潰した様な顔をしていた。
「・・・こいつとやるなんて・・冗談じゃねえ」
千影が一人、そう毒づく。
隣に座っていた輝愛が、千影の呟きを捕らえ、一瞬、身体を強張らせる。
千影の反対隣に座っていた橋本勇也が、苦笑するような、何とも言い難い表情で珠子を見つめた。
・・珠子姐さん、なかなか酷な事をするよなあ・・
その勇也の視線に気付いてか、珠子は目を伏せたまま、微かに微笑んだ。
輝愛はそのまま、膝の上で手を握ったまま、視線を机の上の台本に落としていた。
彼女は今まで、千影のこれ程までに不機嫌そうな顔は見た事は無かった。
千影と出会って約一年、彼は口調や態度は冷たい事が多かったが、その視線は、いつも輝愛に向けられていたし、眼差しはいつも暖かかった。
その彼が今、本気で、嫌悪している。
その原因が、恐らく図らずも自分にあるのであろう事も、予測するに難くなかった。
珠子は、発言権を演出の笹林に戻し、その二人の光景を眺めていた。
「もうそろそろ、抜け出しなさい・・」
誰にも聞こえないような小さな声で、珠子は一人、呟いた。
そしてそのまま別段特別な事も無く、そのまま本読みに入り、お開きとなった。
本読みが終わり、挨拶が済んだ時点で、各自ぱらぱらと部屋を出て行く。
珠子が千影に近付いて来て、苦笑した。
千影は無言で彼女を威圧する様に睨み付け、煙草を口にくわえて、苦しそうに一つ息を吸うと、背中越しに振り向く気配すらなく、
「―遅くなる」
そう一言輝愛に言い放って、彼女が返事をする間も無く、一人、歩き出してしまった。
珠子も無言で輝愛の肩に触れ、まるで『大丈夫』とでも言うように微笑むと、くるりと踵を返して、千影の後を小走りで追った。
一人残された輝愛は、しばらくそのまましばらく佇んだままでいた。
◇
「どうしたのよちかちゃん」
「お前がそう聞くのか」
さも不機嫌そうにグラスの中身をあおりながら、千影は眉間に寄せた皺を一層濃くして毒づいた。
二人馴染みのバーのカウンターの席を陣取り、酒を飲んでいる。
あくまでも、千影がそこそこのピッチであおっているだけで、珠子は自由なペースである。
決して、『仲良く飲み交わしている』と言える様な雰囲気で無いのは、確かである。
ぱっと見れば、寡黙な彼氏に付き添う美人な彼女、と言った様な見た目だ。
「なんで」
千影がグラスを片手にぶら下げたまま、彼女の方を見もせずに言う。
「何で今更やるんだよ」
「今更って言うなら、やっても良いんじゃない」
「お前、以外と残酷なのな」
千影は額に手を当てて、カウンターに突っ伏す様な形になる。
「ここまでちかちゃんが嫌がると思わなくて」
「相談してくれよ」
「相談したら嫌がるでしょ」
「確信犯じゃねえか・・」
淡々と語る珠子に、千影はかつての子供時代の様に珠子を上目遣いに眺める。
「本当に、もう平気かと思ったのよ」
「・・どうだか」
「月鬼、やりがいあるし」
「・・それは否定はしない」
珠子は空になったグラスを弄ぶ。
「輝愛ちゃんにつばめ、やらせたかった」
ふて腐れた様に言う珠子だったが、目は真剣だ。
「・・・せめてお前がやってくれたら、有り難いんだけどなあ」
「あたしに15歳の役をやれと言うの?」
「無理?」
「無理でしょう」
千影はそこでやっと苦笑して、カウンターに突っ伏すのを止めた。
「客演とか・・」
「誰に」
「・・・・」
逆に問い掛けられて、言いよどむ。
確かに、仲の良い劇団のメンバーは皆、年齢的に千影世代なのだ。
「仕事だから、何とかしてもらえると有り難いけど、無理?」
珠子が千影の姉の顔で聞いてくる。
その表情が、何だか無性に懐かしくて、珍しく久々に可愛らしく見えて、千影は再び苦笑する。
「仕方ねえか」
そう言って、グラスに僅かばかり残った液体を、一気に喉の奥に流し込んだ。
「・・吹っ切れてないのね・・」
「一生無理かもよ?」
千影は珠子に向かって首を傾げたような格好になる。
「可愛い仕草で誤魔化そうたって、駄目よ」
珠子は微笑んで彼の額を、指の腹でとん、と優しく突付いた。
「・・・お前と結婚しときゃ良かったなあ~」
頬杖をついたまま、目の前の姉貴分を見やって、笑う。
「今更何言い出すのよこの子は」
そう言う珠子も、笑っていた。
「輝愛ちゃんがいるじゃない。あんな純粋でいい子、そうそう落っこちてないわよ」
「あんなガキ相手じゃ、何もする気になれん」
千影がいささかふて腐れた様に眉を寄せる。
「男も女もいっしょくただぞ?俺の布団に潜り込んで来る様な奴だぞ?手繋ごうが、抱き締めようが、何の反応も無いようなガキだぞ?あんなの相手になにしろってんだ」
「・・・・・・・そんな事してたんだ」
愚痴った千影の言葉に、輝愛をこよなく愛している珠子の視線が凍る。
「・・・・・・・・・・・・例えだ、例え」
千影はするりと目線を避けるように、弁解ともつかない弁解を、小声で告げた。
「まあ、良いのかしら。そんな事言ってると、誰かにすぐにでも娘、かっさらわれちゃうわよ?」
「それは嫌」
「わがままだこと」
「男は皆わがままなんだよ」
千影は三度、苦笑する。
どうあっても、珠子に勝つ事は、一生涯無さそうだな、等と考えながら。
会計を終えて、店を出て、駅に向かう。
珍しく、まだ終電に間に合う時間である。
珠子は何の躊躇いも無く。千影の腕に自分の腕を絡ませる。
彼女の癖である。
この彼女の癖のおかげで、学生時代は何度と無く緊張を強いられたが、今となってはこれも当たり前になってしまったいる。
亭主である紅龍でさえも、千影と珠子のこの光景を見ても、あまりに馴染み過ぎていて『いつも通り』としか認識しないくらいだ。
「嫌なら、役変えようか?」
「やるよ」
いつになくはっきりした口調で答えた弟分に、一瞬歩みを止める。
「――どうした?」
千影も立ち止まって、珠子の顔を覗き込む。
「――何でもないわ」
いつの間にか、大きくなっちゃったのよね。あたしなんかより、ずっと。
珠子は微笑みを作ると、再び先程と同じペースで歩き出す。
「酔ったのか?」
「んーん」
頭を振り、もう随分前に抜かされてしまった身長分、目線を上げ、
「どっちが年上だか、わかんないわね」
「お前美人だからなあ」
言って、煙草に火をつける。
「何よそれ」
「美人は年齢不詳って事さ」
千影の台詞が終わるや否や、彼女は真正面から千影に抱きつく。
「どうした」
一瞬動揺したようだったが、すぐにいつもの彼の口調に、いや、幾分楽しげに彼女を抱き締め返す。
「おんぶして!」
「は?」
「おんぶ!」
いきなり腕の中で駄々をこね始めた珠子に、一瞬目を見開いて、しかしすぐに瞼を閉じて苦笑して、『仕方ねえ』と小さく言うと、軽々と彼女を背負い上げた。
「ほらほら、とっとと帰るよ!」
「うるせえな~」
背中でじたばたする珠子に文句を零しながら、しかし、彼の表情は明るかった。
珠子は、ひとしきり暴れると、千影の首に腕をしっかり巻き付け、瞼を閉じて、彼の背中にくっ付いた。
本当に、すっかり大きくなっちゃったね。千影。
心の中だけでそう呟くと、珠子は愛しそうに千影の髪の毛に頬を寄せた。
「おはようございまーす」
「はよーす」
いつもの様に挨拶して、並べられたパイプ椅子に腰掛ける千影。
その後一瞬遅れて、彼の隣の椅子にちょこんと座る輝愛。
その二人の後にも、何人かが挨拶をしながら椅子についた。
全員が着席したところで、演出担当である笹林から声がかかる。
今日は、顔合わせなのである。
劇団いづちの公演も無事に千秋楽を向かえ、アクションチームメンバーは、ほぼ休む間も無くこの日を迎えた。
「じゃ、配役は――」
ろくすっぽ自己紹介しないまま進行する。
まあ、全員が顔見知りなので、必要ないと言えば必要ないのだが、普通顔合わせでは、各自の紹介の様なものを行うのが通例である。
「その前に、今回の演目ですが」
珠子がいたずらっぽく言う。
今の今まで『言ってなかったわね』等と言って微笑んでいるが、『言わなかった』のは、この当の珠子である。
「再演になるんだけど、本は書き直してもらいました。演目は『月鬼』でーす」
珠子が至極、彼女にしては真面目な口調で言う。
瞬間、千影の眉間に、明らかに皺が寄り、肩がぴくりと震えた。
珠子は千影のその動きを目だけで確認してから、しかし、彼女はそんなもの存在しないとでも言うかのように、順々に配役発表をして行く。
「結構前回の初演の時と、うちもメンバー換わってるから、再演色は薄くなると思うわよ」
なんて付け加えながら。
「アヤメ役、有住浩春」
「蘇芳役、橋本勇也」
と、順々に名前を呼んで行く。
「今回座長の月鬼役、前回同様、川橋千影」
珠子の声に、未だ憮然としたまま、配られた台本に目を落としている千影。
珠子はその姿を少し苦笑した様に眺めながら、最後に残った役名を口にした。
「ヒロインのつばめ役、高梨輝愛」
「は?」
「!?」
輝愛が思わず声を上げる。
千影は最早声も無く、身体を硬直させる。
無理も無い。
まだ入団してわずかばかりの輝愛に、ヒロイン、要するに主役級の役を与えたのだ。
普通に考えれば、異常である。
そして千影は千影で、別の意味で苦虫を噛み潰した様な顔をしていた。
「・・・こいつとやるなんて・・冗談じゃねえ」
千影が一人、そう毒づく。
隣に座っていた輝愛が、千影の呟きを捕らえ、一瞬、身体を強張らせる。
千影の反対隣に座っていた橋本勇也が、苦笑するような、何とも言い難い表情で珠子を見つめた。
・・珠子姐さん、なかなか酷な事をするよなあ・・
その勇也の視線に気付いてか、珠子は目を伏せたまま、微かに微笑んだ。
輝愛はそのまま、膝の上で手を握ったまま、視線を机の上の台本に落としていた。
彼女は今まで、千影のこれ程までに不機嫌そうな顔は見た事は無かった。
千影と出会って約一年、彼は口調や態度は冷たい事が多かったが、その視線は、いつも輝愛に向けられていたし、眼差しはいつも暖かかった。
その彼が今、本気で、嫌悪している。
その原因が、恐らく図らずも自分にあるのであろう事も、予測するに難くなかった。
珠子は、発言権を演出の笹林に戻し、その二人の光景を眺めていた。
「もうそろそろ、抜け出しなさい・・」
誰にも聞こえないような小さな声で、珠子は一人、呟いた。
そしてそのまま別段特別な事も無く、そのまま本読みに入り、お開きとなった。
本読みが終わり、挨拶が済んだ時点で、各自ぱらぱらと部屋を出て行く。
珠子が千影に近付いて来て、苦笑した。
千影は無言で彼女を威圧する様に睨み付け、煙草を口にくわえて、苦しそうに一つ息を吸うと、背中越しに振り向く気配すらなく、
「―遅くなる」
そう一言輝愛に言い放って、彼女が返事をする間も無く、一人、歩き出してしまった。
珠子も無言で輝愛の肩に触れ、まるで『大丈夫』とでも言うように微笑むと、くるりと踵を返して、千影の後を小走りで追った。
一人残された輝愛は、しばらくそのまましばらく佇んだままでいた。
◇
「どうしたのよちかちゃん」
「お前がそう聞くのか」
さも不機嫌そうにグラスの中身をあおりながら、千影は眉間に寄せた皺を一層濃くして毒づいた。
二人馴染みのバーのカウンターの席を陣取り、酒を飲んでいる。
あくまでも、千影がそこそこのピッチであおっているだけで、珠子は自由なペースである。
決して、『仲良く飲み交わしている』と言える様な雰囲気で無いのは、確かである。
ぱっと見れば、寡黙な彼氏に付き添う美人な彼女、と言った様な見た目だ。
「なんで」
千影がグラスを片手にぶら下げたまま、彼女の方を見もせずに言う。
「何で今更やるんだよ」
「今更って言うなら、やっても良いんじゃない」
「お前、以外と残酷なのな」
千影は額に手を当てて、カウンターに突っ伏す様な形になる。
「ここまでちかちゃんが嫌がると思わなくて」
「相談してくれよ」
「相談したら嫌がるでしょ」
「確信犯じゃねえか・・」
淡々と語る珠子に、千影はかつての子供時代の様に珠子を上目遣いに眺める。
「本当に、もう平気かと思ったのよ」
「・・どうだか」
「月鬼、やりがいあるし」
「・・それは否定はしない」
珠子は空になったグラスを弄ぶ。
「輝愛ちゃんにつばめ、やらせたかった」
ふて腐れた様に言う珠子だったが、目は真剣だ。
「・・・せめてお前がやってくれたら、有り難いんだけどなあ」
「あたしに15歳の役をやれと言うの?」
「無理?」
「無理でしょう」
千影はそこでやっと苦笑して、カウンターに突っ伏すのを止めた。
「客演とか・・」
「誰に」
「・・・・」
逆に問い掛けられて、言いよどむ。
確かに、仲の良い劇団のメンバーは皆、年齢的に千影世代なのだ。
「仕事だから、何とかしてもらえると有り難いけど、無理?」
珠子が千影の姉の顔で聞いてくる。
その表情が、何だか無性に懐かしくて、珍しく久々に可愛らしく見えて、千影は再び苦笑する。
「仕方ねえか」
そう言って、グラスに僅かばかり残った液体を、一気に喉の奥に流し込んだ。
「・・吹っ切れてないのね・・」
「一生無理かもよ?」
千影は珠子に向かって首を傾げたような格好になる。
「可愛い仕草で誤魔化そうたって、駄目よ」
珠子は微笑んで彼の額を、指の腹でとん、と優しく突付いた。
「・・・お前と結婚しときゃ良かったなあ~」
頬杖をついたまま、目の前の姉貴分を見やって、笑う。
「今更何言い出すのよこの子は」
そう言う珠子も、笑っていた。
「輝愛ちゃんがいるじゃない。あんな純粋でいい子、そうそう落っこちてないわよ」
「あんなガキ相手じゃ、何もする気になれん」
千影がいささかふて腐れた様に眉を寄せる。
「男も女もいっしょくただぞ?俺の布団に潜り込んで来る様な奴だぞ?手繋ごうが、抱き締めようが、何の反応も無いようなガキだぞ?あんなの相手になにしろってんだ」
「・・・・・・・そんな事してたんだ」
愚痴った千影の言葉に、輝愛をこよなく愛している珠子の視線が凍る。
「・・・・・・・・・・・・例えだ、例え」
千影はするりと目線を避けるように、弁解ともつかない弁解を、小声で告げた。
「まあ、良いのかしら。そんな事言ってると、誰かにすぐにでも娘、かっさらわれちゃうわよ?」
「それは嫌」
「わがままだこと」
「男は皆わがままなんだよ」
千影は三度、苦笑する。
どうあっても、珠子に勝つ事は、一生涯無さそうだな、等と考えながら。
会計を終えて、店を出て、駅に向かう。
珍しく、まだ終電に間に合う時間である。
珠子は何の躊躇いも無く。千影の腕に自分の腕を絡ませる。
彼女の癖である。
この彼女の癖のおかげで、学生時代は何度と無く緊張を強いられたが、今となってはこれも当たり前になってしまったいる。
亭主である紅龍でさえも、千影と珠子のこの光景を見ても、あまりに馴染み過ぎていて『いつも通り』としか認識しないくらいだ。
「嫌なら、役変えようか?」
「やるよ」
いつになくはっきりした口調で答えた弟分に、一瞬歩みを止める。
「――どうした?」
千影も立ち止まって、珠子の顔を覗き込む。
「――何でもないわ」
いつの間にか、大きくなっちゃったのよね。あたしなんかより、ずっと。
珠子は微笑みを作ると、再び先程と同じペースで歩き出す。
「酔ったのか?」
「んーん」
頭を振り、もう随分前に抜かされてしまった身長分、目線を上げ、
「どっちが年上だか、わかんないわね」
「お前美人だからなあ」
言って、煙草に火をつける。
「何よそれ」
「美人は年齢不詳って事さ」
千影の台詞が終わるや否や、彼女は真正面から千影に抱きつく。
「どうした」
一瞬動揺したようだったが、すぐにいつもの彼の口調に、いや、幾分楽しげに彼女を抱き締め返す。
「おんぶして!」
「は?」
「おんぶ!」
いきなり腕の中で駄々をこね始めた珠子に、一瞬目を見開いて、しかしすぐに瞼を閉じて苦笑して、『仕方ねえ』と小さく言うと、軽々と彼女を背負い上げた。
「ほらほら、とっとと帰るよ!」
「うるせえな~」
背中でじたばたする珠子に文句を零しながら、しかし、彼の表情は明るかった。
珠子は、ひとしきり暴れると、千影の首に腕をしっかり巻き付け、瞼を閉じて、彼の背中にくっ付いた。
本当に、すっかり大きくなっちゃったね。千影。
心の中だけでそう呟くと、珠子は愛しそうに千影の髪の毛に頬を寄せた。
PR
■こんぺいとう 4 あくとあくたーず3 ■
「うん、そこ、もっとこういう感じでやって」
「――はい」
「じゃあ次のシーン先に行こうか。紅龍と橋本入って――」
稽古場である。
皆いつものジャージ姿で、しかしいつもの雰囲気とは打って変わって、真剣な表情で稽古に励んでいる。
結局、千影が役を降りる事も無く、キャスティングに変更のないままの稽古入りである。
輝愛は稽古場に作られた簡易舞台から降り、他のメンバー達が居る場所まで戻って来た。
千影は前回同じ役を演じていた事もあり、台詞も前回と同様の箇所も少なくなかったので、すぐさま役に入り込み、座長としてカンパニーを良い雰囲気にしている。
他のメンバー達も、久々のチーム単独公演で気合が入っており、稽古の進みは順調である。
殺陣に関しては文句をつける場所を探すのが難しいくらいだが、それでも殺陣返しでは社長・紅龍の厳しい注文が飛ぶ。
全てにおいてただ一人、輝愛を除いてはの話だが。
どうやっても、『ダメ』、『違う』と言われてしまい、少々――いや、かなりか――へこんでいるのだが、これは仕事であって、学生の部活動やらお遊びの趣味では無いのだ。
へこんでいる余裕も、実際のところは無い。
「じゃあ輝愛ちゃんと川ちゃん、大輔の三人、抜きで行こうか」
演出に呼ばれて、板の上に立つ。
当然ながら、台本を手にしている者は皆無であるが、それでも皆現場に台本を持参しているのは、演出からの細かい指示やら、きっかけ、立ち位置を記入する為である。
板の上に立った輝愛は、一つすうっ、と小さく生きを吸い込み、流れて来た音に合わせて芝居を始める。
『私は、あんたが恐いなんて思ってないよ』
『―――馬鹿な女だ。死にたいのか』
『つばめ殿、無茶な真似はお止しなさい』
板の上で三人が芝居を始める。
しかし、演出担当の笹林の顔は、終止厳しいままである。
それは、今回演出助手の位置に居る珠子も同様だった。
一通りシーンの通しが終わり、笹林からダメ出しが入る。
個人個人に対して丁寧なダメ出しが入り、日もとっくに沈み切った今日は、これにてお開きになった。
最も、殺陣担当の千影、紅龍、勇也、珠子は、この後、今日固まったシーンに殺陣をつける為、毎度お馴染み居残りである。
着替えを済ませ、カバンに荷物を詰め込んで、輝愛は一人、稽古場を後にした。
千影を待とうかとも考えたが、見るからにそうそう簡単には終わらないだろう雰囲気が流れていて、諦めてそのまま帰路につく事にしたのだ。
「――はあ」
意識せずとも、溜息が漏れてしまう始末だ。
帰りの最寄駅までのみ地の利を、一人でてくてくと歩く。
脳裏に、演出の笹林の言葉が蘇る。
――輝愛ちゃん、もっと感情込めて。
――もっと表情出して、
――しっかり立って、つばめになりきって。
――やる気、ある?
正直、しんどかった。
やる気はある。当然だ、
しかし、どうして良いか分からない。
いつもの様に、他のメンバーと一緒に、名も無いような役で舞台に立っている分には、何も感じなかった。
いままで、どれだけ自分が他のメンバーに助けられ、支えてもらっていたのか、改めて痛感した。
「とにかく、明日までに今日言われた所は何とかしなきゃ」
自分で自分を奮い立たせる様に言う。
それでもこの娘は、後ろ向きに『やりたくない』等と口にするは愚か
、考えもしない所がすごいのだろう。
とにかく求められるレベルに達しようと、夢中でもがいているのだ。
そしてそれが出来なかった場合、プロの世界では通用しないという事も、理解しているのだ。
「頑張るぞっ」
自分に言ってやって、輝愛は家路を急いだ。
◇
「ん?これって・・」
帰宅して掃除をしていた彼女の目に、一本のビデオテープが留まった。
何気なく手に取り、ラベルを見て一瞬息を飲む。
――『月鬼』
確かに、そう書いてある。
もしかしたら、これが初演の時のテープだろうか。
だとしたら、何か役に関するヒントが得られるかも知れない。
はやる気持ちを抑えつつ、彼女はデッキにテープを入れ、食い入るように画面を見つめた。
案の定、それは初演の時のテープで、恐らく10年前後前のものだから、当然かすれや映像に若干の乱れは見られたものの、鑑賞する分には差し支えは無かった。
―――出て来た!
輝愛はごくりと唾を飲み込む。
つばめ役、輝愛が今回やるべき役の人間が、画面に映し出されたのだ。
快活に走り回り、ころころ変わる表情。
微妙なニュアンスでの芝居。
内面と外面を一気に感じさせる繊細な大胆さ。
ラストで千影を前に涙する彼女の、真に迫った演技。
どれをとっても、何一つ適わないと思った。
いや、そう考えるのも、おこがましい。
「あは、カワハシが若い」
アップになった千影に思わず笑みがこぼれる。
初演が公開されたのは10年前後も前だから、若くて当然と言えば当然なのだが。
22、23の千影を知らない輝愛は、不思議な感覚だった。
「それにしても、この人、すごいな」
思わず呟く程、初演のつばめ役の彼女は、まさしく『つばめ』であった。
―――この人みたいにやりたい。
いつの間にか、目は彼女だけを追っていて、あっと言う間にビデオは終わってしまった。
時計を見ると、既に2時間半以上経過していたが、居残り組の千影の帰宅は、まだなようである。
「・・・すごかった」
今度は私が、アレをやるんだ。
彼女にならなくちゃ。
輝愛はビデオを元あった棚に戻すと、かばんから台本を引っ張り出し、とりつかれたように読みふけった。
◇
「輝愛ちゃん、良くなったと思わん?」
「な、昨日と別格」
翌日の稽古場で、若いメンバー達が集まって、口々にささやいている。
輝愛と一緒に板に立っている人間も、やりやすそうな空気で、稽古が進んで行く。
千影との絡みも、何事も無く進んで行く。
最も千影は、連日の殺陣作成の居残りで、少々疲労気味のため、板の上以外での表情は、多少重たかったのだが。
「どうしたの輝愛ちゃん、何があったの?」
珠子が出番を終えて簡易舞台から降りた輝愛に声をかける。
「昨日と全然違うけど?」
そう言って、輝愛を覗き込む様に見つめる。
「ビデオ、見たんです」
「ビデオ?」
「初演の時の、ビデオ」
そう輝愛が彼女に告げた瞬間、珠子の表情が一瞬曇る。
「・・・え、まずかったですか?初演のビデオ見ちゃったの・・」
一気に不安になった輝愛が、珠子を恐る恐る眺める。
輝愛の問い掛けに、珠子は一瞬見せた表情を消し、いつもの口調で、
「いや~、出来れば見ないで欲しかったのよねぇ。前回の初演の『なぞり』にはしたくなくって」
「・・すいません」
珠子の言葉に、しゅんとうな垂れる輝愛。
珠子はぱたぱた手を振って、
「いやいや、輝愛ちゃんが可奈子の真似にならなきゃ良いだけで」
「かなこ?」
輝愛の再びの問いかけに、珠子は再び『しまった』と言う表情を作ったが、あまりに短い時間だったので、輝愛に感づかれる事は無かった。
「・・・そう、初演のつばめは可奈子ちゃんって人が演ってたのよ」
そう言って、いつもの小悪魔プラス女神な笑顔で輝愛に微笑む。
「可奈子、さんかぁ」
そう呟いて、何やら考え込む輝愛に、
「・・・何か、学んじゃったりした?」
「はい。すごかったです。彼女は、とても『つばめ』でした」
その輝愛の言葉に、珠子はそれこそ嬉しそうに、
「そりゃ、『つばめ』は『可奈子』だもの」
「は?」
言葉が少なすぎて輝愛に伝わらなかった事に苦笑し、彼女は言い直す。
「そう、『つばめ』は、可奈子がモデルなのよ」
「そうなんですか」
輝愛は納得したように声を漏らし、脳裏に焼きついた映像を思い出す。
「すごく、素敵でした。可奈子さんのつばめ。今回、私が演ってイメージ壊しちゃったらどうしようとか、昨日実は悩みました」
そう言って、『なんか偉そうですよね私』と言って、へへ、と恥ずかしそうに頬を染める。
「どうしたら可奈子さんみたいに出来るか、可奈子さんのつばめになれるか、すごい悩んでます」
真剣な表情の輝愛に、珠子はいつもの口調で、
「可奈子になる必要は無いわ。輝愛ちゃんは輝愛ちゃんだもの」
「でも、つばめは可奈子さんでしょ?」
「今回のつばめは、輝愛ちゃんなのよ」
珠子の微笑みに、輝愛は難しそうに眉を寄せる。
「わかんないかな?」
「・・・微妙です」
素直に答える輝愛に、珠子は声を出して笑って、
「輝愛ちゃんが輝愛ちゃんなりに『つばめ』を演ればいいのよ。可奈子の真似なんかしないで」
「でも・・」
「可奈子の真似なら、輝愛ちゃんがやる必要無い。可奈子にやらせるから」
その台詞に、輝愛の中の何かがはじけた。
「・・・・・・・私の、つばめ・・・」
「そう、あなたのつばめよ」
「私の・・・」
珠子は輝愛の肩に優しく手を置くと、舞台監督の呼び声に振り向き、そのまま小走りに走って行った。
輝愛は、その場で手を無意識のうちに握り締めていた―――
「うん、そこ、もっとこういう感じでやって」
「――はい」
「じゃあ次のシーン先に行こうか。紅龍と橋本入って――」
稽古場である。
皆いつものジャージ姿で、しかしいつもの雰囲気とは打って変わって、真剣な表情で稽古に励んでいる。
結局、千影が役を降りる事も無く、キャスティングに変更のないままの稽古入りである。
輝愛は稽古場に作られた簡易舞台から降り、他のメンバー達が居る場所まで戻って来た。
千影は前回同じ役を演じていた事もあり、台詞も前回と同様の箇所も少なくなかったので、すぐさま役に入り込み、座長としてカンパニーを良い雰囲気にしている。
他のメンバー達も、久々のチーム単独公演で気合が入っており、稽古の進みは順調である。
殺陣に関しては文句をつける場所を探すのが難しいくらいだが、それでも殺陣返しでは社長・紅龍の厳しい注文が飛ぶ。
全てにおいてただ一人、輝愛を除いてはの話だが。
どうやっても、『ダメ』、『違う』と言われてしまい、少々――いや、かなりか――へこんでいるのだが、これは仕事であって、学生の部活動やらお遊びの趣味では無いのだ。
へこんでいる余裕も、実際のところは無い。
「じゃあ輝愛ちゃんと川ちゃん、大輔の三人、抜きで行こうか」
演出に呼ばれて、板の上に立つ。
当然ながら、台本を手にしている者は皆無であるが、それでも皆現場に台本を持参しているのは、演出からの細かい指示やら、きっかけ、立ち位置を記入する為である。
板の上に立った輝愛は、一つすうっ、と小さく生きを吸い込み、流れて来た音に合わせて芝居を始める。
『私は、あんたが恐いなんて思ってないよ』
『―――馬鹿な女だ。死にたいのか』
『つばめ殿、無茶な真似はお止しなさい』
板の上で三人が芝居を始める。
しかし、演出担当の笹林の顔は、終止厳しいままである。
それは、今回演出助手の位置に居る珠子も同様だった。
一通りシーンの通しが終わり、笹林からダメ出しが入る。
個人個人に対して丁寧なダメ出しが入り、日もとっくに沈み切った今日は、これにてお開きになった。
最も、殺陣担当の千影、紅龍、勇也、珠子は、この後、今日固まったシーンに殺陣をつける為、毎度お馴染み居残りである。
着替えを済ませ、カバンに荷物を詰め込んで、輝愛は一人、稽古場を後にした。
千影を待とうかとも考えたが、見るからにそうそう簡単には終わらないだろう雰囲気が流れていて、諦めてそのまま帰路につく事にしたのだ。
「――はあ」
意識せずとも、溜息が漏れてしまう始末だ。
帰りの最寄駅までのみ地の利を、一人でてくてくと歩く。
脳裏に、演出の笹林の言葉が蘇る。
――輝愛ちゃん、もっと感情込めて。
――もっと表情出して、
――しっかり立って、つばめになりきって。
――やる気、ある?
正直、しんどかった。
やる気はある。当然だ、
しかし、どうして良いか分からない。
いつもの様に、他のメンバーと一緒に、名も無いような役で舞台に立っている分には、何も感じなかった。
いままで、どれだけ自分が他のメンバーに助けられ、支えてもらっていたのか、改めて痛感した。
「とにかく、明日までに今日言われた所は何とかしなきゃ」
自分で自分を奮い立たせる様に言う。
それでもこの娘は、後ろ向きに『やりたくない』等と口にするは愚か
、考えもしない所がすごいのだろう。
とにかく求められるレベルに達しようと、夢中でもがいているのだ。
そしてそれが出来なかった場合、プロの世界では通用しないという事も、理解しているのだ。
「頑張るぞっ」
自分に言ってやって、輝愛は家路を急いだ。
◇
「ん?これって・・」
帰宅して掃除をしていた彼女の目に、一本のビデオテープが留まった。
何気なく手に取り、ラベルを見て一瞬息を飲む。
――『月鬼』
確かに、そう書いてある。
もしかしたら、これが初演の時のテープだろうか。
だとしたら、何か役に関するヒントが得られるかも知れない。
はやる気持ちを抑えつつ、彼女はデッキにテープを入れ、食い入るように画面を見つめた。
案の定、それは初演の時のテープで、恐らく10年前後前のものだから、当然かすれや映像に若干の乱れは見られたものの、鑑賞する分には差し支えは無かった。
―――出て来た!
輝愛はごくりと唾を飲み込む。
つばめ役、輝愛が今回やるべき役の人間が、画面に映し出されたのだ。
快活に走り回り、ころころ変わる表情。
微妙なニュアンスでの芝居。
内面と外面を一気に感じさせる繊細な大胆さ。
ラストで千影を前に涙する彼女の、真に迫った演技。
どれをとっても、何一つ適わないと思った。
いや、そう考えるのも、おこがましい。
「あは、カワハシが若い」
アップになった千影に思わず笑みがこぼれる。
初演が公開されたのは10年前後も前だから、若くて当然と言えば当然なのだが。
22、23の千影を知らない輝愛は、不思議な感覚だった。
「それにしても、この人、すごいな」
思わず呟く程、初演のつばめ役の彼女は、まさしく『つばめ』であった。
―――この人みたいにやりたい。
いつの間にか、目は彼女だけを追っていて、あっと言う間にビデオは終わってしまった。
時計を見ると、既に2時間半以上経過していたが、居残り組の千影の帰宅は、まだなようである。
「・・・すごかった」
今度は私が、アレをやるんだ。
彼女にならなくちゃ。
輝愛はビデオを元あった棚に戻すと、かばんから台本を引っ張り出し、とりつかれたように読みふけった。
◇
「輝愛ちゃん、良くなったと思わん?」
「な、昨日と別格」
翌日の稽古場で、若いメンバー達が集まって、口々にささやいている。
輝愛と一緒に板に立っている人間も、やりやすそうな空気で、稽古が進んで行く。
千影との絡みも、何事も無く進んで行く。
最も千影は、連日の殺陣作成の居残りで、少々疲労気味のため、板の上以外での表情は、多少重たかったのだが。
「どうしたの輝愛ちゃん、何があったの?」
珠子が出番を終えて簡易舞台から降りた輝愛に声をかける。
「昨日と全然違うけど?」
そう言って、輝愛を覗き込む様に見つめる。
「ビデオ、見たんです」
「ビデオ?」
「初演の時の、ビデオ」
そう輝愛が彼女に告げた瞬間、珠子の表情が一瞬曇る。
「・・・え、まずかったですか?初演のビデオ見ちゃったの・・」
一気に不安になった輝愛が、珠子を恐る恐る眺める。
輝愛の問い掛けに、珠子は一瞬見せた表情を消し、いつもの口調で、
「いや~、出来れば見ないで欲しかったのよねぇ。前回の初演の『なぞり』にはしたくなくって」
「・・すいません」
珠子の言葉に、しゅんとうな垂れる輝愛。
珠子はぱたぱた手を振って、
「いやいや、輝愛ちゃんが可奈子の真似にならなきゃ良いだけで」
「かなこ?」
輝愛の再びの問いかけに、珠子は再び『しまった』と言う表情を作ったが、あまりに短い時間だったので、輝愛に感づかれる事は無かった。
「・・・そう、初演のつばめは可奈子ちゃんって人が演ってたのよ」
そう言って、いつもの小悪魔プラス女神な笑顔で輝愛に微笑む。
「可奈子、さんかぁ」
そう呟いて、何やら考え込む輝愛に、
「・・・何か、学んじゃったりした?」
「はい。すごかったです。彼女は、とても『つばめ』でした」
その輝愛の言葉に、珠子はそれこそ嬉しそうに、
「そりゃ、『つばめ』は『可奈子』だもの」
「は?」
言葉が少なすぎて輝愛に伝わらなかった事に苦笑し、彼女は言い直す。
「そう、『つばめ』は、可奈子がモデルなのよ」
「そうなんですか」
輝愛は納得したように声を漏らし、脳裏に焼きついた映像を思い出す。
「すごく、素敵でした。可奈子さんのつばめ。今回、私が演ってイメージ壊しちゃったらどうしようとか、昨日実は悩みました」
そう言って、『なんか偉そうですよね私』と言って、へへ、と恥ずかしそうに頬を染める。
「どうしたら可奈子さんみたいに出来るか、可奈子さんのつばめになれるか、すごい悩んでます」
真剣な表情の輝愛に、珠子はいつもの口調で、
「可奈子になる必要は無いわ。輝愛ちゃんは輝愛ちゃんだもの」
「でも、つばめは可奈子さんでしょ?」
「今回のつばめは、輝愛ちゃんなのよ」
珠子の微笑みに、輝愛は難しそうに眉を寄せる。
「わかんないかな?」
「・・・微妙です」
素直に答える輝愛に、珠子は声を出して笑って、
「輝愛ちゃんが輝愛ちゃんなりに『つばめ』を演ればいいのよ。可奈子の真似なんかしないで」
「でも・・」
「可奈子の真似なら、輝愛ちゃんがやる必要無い。可奈子にやらせるから」
その台詞に、輝愛の中の何かがはじけた。
「・・・・・・・私の、つばめ・・・」
「そう、あなたのつばめよ」
「私の・・・」
珠子は輝愛の肩に優しく手を置くと、舞台監督の呼び声に振り向き、そのまま小走りに走って行った。
輝愛は、その場で手を無意識のうちに握り締めていた―――
■こんぺいとう 4 あくとあくたーず4 ■
演出の笹林は、紙コップを握り、口に煙草をくわえながら、何やら渋い顔で思案している。
稽古場の、休憩中の風景である。
稽古も進み、例の輝愛もそこそこ及第点を与えられる形になり、演出担当としては、いくらか気分が楽になって来た頃合である。
が、彼の眉間には、深い溝が浮かんでいる。
辺りには、一緒になって待ってましたとばかりに煙草をふかす同志が数名。
休憩中とは言えど、いまだに自分の台詞や動きを確認している者もいれば、音響担当と照明担当は、お互いに数え切れない切っ掛けの確認や、音出し等の打ち合わせを、カップ片手に行っていたりする。
「あ、勇也悪ぃ、火貸して」
自らのポケットをまさぐってはみたが、お目当ての物が無いと分かり、隣に居た橋本勇也に声をかける千影。
「ほいほい、点けますよ」
勇也は言いつつジッポーを取り出し、千影がくわえた煙草の前で二度三度指を滑らせる。が、
「ガス切れちゃったかな?」
「あらら、じゃあお前の火でいいや、頂戴」
「ほいほい」
千影は既に勇也が既にふかしていた煙草に、自らがくわえた新しい煙草を近付け、上手い事火をつける。
「サンクス」
「・・・川ちゃんのどアップって、あんまり気持ち良いもんじゃねえっすわ・・」
煙草に火をつけるためには、どうしたって口にくわえて吸っていなければならないのだから、千影が煙草をくわえたまま勇也に近付くのは、道理である。
「お前は手に持つなりすりゃいいじゃん。くわえてる必要無ぇじゃん。良く考えたら」
文句をたれた後輩に、今更ながらもっともらしい意見を述べる先輩。
「大丈夫よ二人とも。はたから見てたら、キスしようとしてたただのホモカップルだったから」
横から割り込んで灰皿に灰を落とす珠子。
千影を勇也が、お互いにそれこそ嫌そうな顔を見合わせたが、屈強な精神の持ち主の珠子には、知った事ではない。
「で、何悩んでるの?笹林さんてば」
珠子は猫のようにするりと笹林の横に入り込み、思案顔の演出に声をかける。
しかし、当の笹林は、先程から目の前で繰り広げられている千影と勇也の一連の行動を目で追ったまま、口元に手を置いてぶつぶつ唸っている。
彼の熟考する時の癖である。
この体勢になると、そうそう他のもの等目にも耳にも入らなくなってしまうのだ。
・・・あらら、何か思いついたのかな?
もはや見慣れた風景に、千影は呑気に残りの煙草を吸い込んだ。
ちらりと横目で視線を走らせると、娘分の輝愛は簡易舞台の上で、大輔から女形の動きを教わっているアリスと共に、ちゃっかり自分も一緒になって教わっていたりする。
そう言えば、彼女が休憩時間に実際に『休憩』してる姿を、殆ど見た事が無いな、と思った。
別にずっと一人最後まで板の上で通し稽古をしている、とか言うのでは無いが。
誰かが何か教わっていたりすると、今回の様に首を突っ込んで、ちゃっかり自分も一緒になって教えてもらい、
殺陣担当が殺陣を作っていれば、そこにものこのこ現れて、まんまと練習台にさせられていたり、
誰も何もやっていない時でも、話などをしながらストレッチをしたり、良く分からない不気味な踊り(千影談)を踊っていたり。
とにかく、何だかんだで首をつっこみ、いつの間にか身に着けている。
もっとも、彼女はこの中で一番の新参者で、殺陣も芝居も経験が浅いのだし、誰にでも言える事だが、いくらやっても足りて余ると言う事は無い世界なのだから、良い事だとは思っている。
「ホモ・・キス・・」
「・・・・・・・・・・・何の話してんの、笹林さんてば・・・」
未だに目の前でぶつくさ言ってる笹林の台詞に、千影は苦笑しつつも引き攣った。
そして突然、
「あ、そっか。そうしよ。菊ちゃーん!」
笹林は一人勝手に思いつき納得し、演出助手の元に小走りにかけて行った。
「何か思いついちゃったな」
「芝居またちょこっと変更だわね」
「まあ、いつもの事だし」
慣れきったお局組は、顔を見合わせて笑った。
◇
「ありすが、ここの台詞言いながらさっきマミッたとこ・・そうそう、そこまで歩いて来て、次の台詞で音が入る、そこに輝愛ちゃんが追いついて来て、この位置で止まって――」
笹林が早速先程思いついた演出プランを、役者に伝えている。
どうやら、アリスと輝愛のシーンに直しが入る様だ。
「ここは『あやめ』と『つばめ』の重要なシーンだから、ちょっとかっこつけちゃおうって事で」
笹林は自分自身が舞台の上に立ちながら、立ち位置やら動きの指定をして行く。
どうにもこうにも、自分で動かないと気が済まない性質らしい。
「で、二人がセンターに入ったらバックの音が上がるから、そこであやめの台詞が入って――」
当の役者本人達は、ふんふん頷きながら確認をしており、『分かった?』と言う演出の言葉に、笑みで答えている。
「あ、そう言えば輝愛ちゃん」
「はい?」
そこで笹林が輝愛に近付き、まるで毎朝の挨拶の様な軽い口調で、とんでもない事を聞いた。
「キスしたことある?」
「は?」
一瞬輝愛が凍りついた様に動かなくなり、彼の台詞が聞こえた数名は、何のこっちゃと言わんばかりに視線を這わせた。
「セクハラで訴えられちゃいますよ」
有住が苦笑しながら笹林に言うが、彼は『いやいや』と首を振り、
「ここのシーンでアリスとキスして貰おうと思ったんだけど、若いでしょ?駄目だったら悪いと思って」
「はあ」
「でもまあ、このシーンは重要だし、それで行くから、どの道やってもらうけど。宜しく」
「はあ」
全く持って、質問した意味を成さない会話である。
輝愛は話について行ってないのか、良く分かっていないのか、口を開けっ放しにしている。
隣に立つ有住が、
「・・・・輝愛ちゃん、意味分かってる?」
と不安げに聞くと、
「一応」
と、曖昧で頼りない返事が返って来た。
「嫌だったらダメモトでも言いな?僕からも頼んでみるし・・さすがに女の子のファーストキス奪うのは、仕事でも気が引けるし・・」
有住は照れた様に頬をぽりぽりとかきながら、輝愛の顔を覗き込む。
「いや、それはお仕事だし、お芝居だから良いんだけど、一個気になってて」
「何?」
覗き込んで問い掛ける有住に、輝愛はごくごくいつも通り普通に問い掛ける。
「鼻がぶつかるでしょ?」
「・・・・・・・・・・・・は?」
かなり遅れて、やっとこさ有住が絞り出した声に対し、輝愛は再び同じ言葉で問い掛ける。
「鼻と鼻がぶつかっちゃうでしょ?どうすれば良いの?」
きょとんとしたままの輝愛に、有住は脱力して彼女の足元にしゃがみ込み、
「・・・・・・それ・・・本気だよね・・・ギャグじゃなくて・・」
「残念ながら、あたしはいつでも大真面目ですよ」
有住はしゃがみ込んだままの姿勢で、『はああ』と大きくため息をつき、後ろ手に頭をぐしゃぐしゃに掻きむしった。
「どしたの?ありすさん」
「・・・・・・・・荷が重いだけです・・」
「?」
未だにきょろんとしている彼女に、ささやかな殺意さえ抱きつつ、有住は立ち上がって笹林に怒鳴る。
「僕の方が嫌ですよー!なんかすごい責任重大じゃないですかー!」
「ん、まあ頑張れ、若人よ」
気持ちのこもっていない笹林のエールで、有住は再び赤くなった顔を隠す様に頭を抱えた。
・・・ちかちゃんがキレそうね、こりゃ・・
ちゃっかり演出助手の椅子に腰掛けた珠子は、半眼になって頬杖をついた。
ふと目の合った橋本が、珠子よりも複雑そうな顔で、大げさに肩をすくませた。
・・・個人的には、面白そうだけどね・・
魔王珠子は、例の魔王使用の微笑みで、一人ほくそえんだ。
演出の笹林は、紙コップを握り、口に煙草をくわえながら、何やら渋い顔で思案している。
稽古場の、休憩中の風景である。
稽古も進み、例の輝愛もそこそこ及第点を与えられる形になり、演出担当としては、いくらか気分が楽になって来た頃合である。
が、彼の眉間には、深い溝が浮かんでいる。
辺りには、一緒になって待ってましたとばかりに煙草をふかす同志が数名。
休憩中とは言えど、いまだに自分の台詞や動きを確認している者もいれば、音響担当と照明担当は、お互いに数え切れない切っ掛けの確認や、音出し等の打ち合わせを、カップ片手に行っていたりする。
「あ、勇也悪ぃ、火貸して」
自らのポケットをまさぐってはみたが、お目当ての物が無いと分かり、隣に居た橋本勇也に声をかける千影。
「ほいほい、点けますよ」
勇也は言いつつジッポーを取り出し、千影がくわえた煙草の前で二度三度指を滑らせる。が、
「ガス切れちゃったかな?」
「あらら、じゃあお前の火でいいや、頂戴」
「ほいほい」
千影は既に勇也が既にふかしていた煙草に、自らがくわえた新しい煙草を近付け、上手い事火をつける。
「サンクス」
「・・・川ちゃんのどアップって、あんまり気持ち良いもんじゃねえっすわ・・」
煙草に火をつけるためには、どうしたって口にくわえて吸っていなければならないのだから、千影が煙草をくわえたまま勇也に近付くのは、道理である。
「お前は手に持つなりすりゃいいじゃん。くわえてる必要無ぇじゃん。良く考えたら」
文句をたれた後輩に、今更ながらもっともらしい意見を述べる先輩。
「大丈夫よ二人とも。はたから見てたら、キスしようとしてたただのホモカップルだったから」
横から割り込んで灰皿に灰を落とす珠子。
千影を勇也が、お互いにそれこそ嫌そうな顔を見合わせたが、屈強な精神の持ち主の珠子には、知った事ではない。
「で、何悩んでるの?笹林さんてば」
珠子は猫のようにするりと笹林の横に入り込み、思案顔の演出に声をかける。
しかし、当の笹林は、先程から目の前で繰り広げられている千影と勇也の一連の行動を目で追ったまま、口元に手を置いてぶつぶつ唸っている。
彼の熟考する時の癖である。
この体勢になると、そうそう他のもの等目にも耳にも入らなくなってしまうのだ。
・・・あらら、何か思いついたのかな?
もはや見慣れた風景に、千影は呑気に残りの煙草を吸い込んだ。
ちらりと横目で視線を走らせると、娘分の輝愛は簡易舞台の上で、大輔から女形の動きを教わっているアリスと共に、ちゃっかり自分も一緒になって教わっていたりする。
そう言えば、彼女が休憩時間に実際に『休憩』してる姿を、殆ど見た事が無いな、と思った。
別にずっと一人最後まで板の上で通し稽古をしている、とか言うのでは無いが。
誰かが何か教わっていたりすると、今回の様に首を突っ込んで、ちゃっかり自分も一緒になって教えてもらい、
殺陣担当が殺陣を作っていれば、そこにものこのこ現れて、まんまと練習台にさせられていたり、
誰も何もやっていない時でも、話などをしながらストレッチをしたり、良く分からない不気味な踊り(千影談)を踊っていたり。
とにかく、何だかんだで首をつっこみ、いつの間にか身に着けている。
もっとも、彼女はこの中で一番の新参者で、殺陣も芝居も経験が浅いのだし、誰にでも言える事だが、いくらやっても足りて余ると言う事は無い世界なのだから、良い事だとは思っている。
「ホモ・・キス・・」
「・・・・・・・・・・・何の話してんの、笹林さんてば・・・」
未だに目の前でぶつくさ言ってる笹林の台詞に、千影は苦笑しつつも引き攣った。
そして突然、
「あ、そっか。そうしよ。菊ちゃーん!」
笹林は一人勝手に思いつき納得し、演出助手の元に小走りにかけて行った。
「何か思いついちゃったな」
「芝居またちょこっと変更だわね」
「まあ、いつもの事だし」
慣れきったお局組は、顔を見合わせて笑った。
◇
「ありすが、ここの台詞言いながらさっきマミッたとこ・・そうそう、そこまで歩いて来て、次の台詞で音が入る、そこに輝愛ちゃんが追いついて来て、この位置で止まって――」
笹林が早速先程思いついた演出プランを、役者に伝えている。
どうやら、アリスと輝愛のシーンに直しが入る様だ。
「ここは『あやめ』と『つばめ』の重要なシーンだから、ちょっとかっこつけちゃおうって事で」
笹林は自分自身が舞台の上に立ちながら、立ち位置やら動きの指定をして行く。
どうにもこうにも、自分で動かないと気が済まない性質らしい。
「で、二人がセンターに入ったらバックの音が上がるから、そこであやめの台詞が入って――」
当の役者本人達は、ふんふん頷きながら確認をしており、『分かった?』と言う演出の言葉に、笑みで答えている。
「あ、そう言えば輝愛ちゃん」
「はい?」
そこで笹林が輝愛に近付き、まるで毎朝の挨拶の様な軽い口調で、とんでもない事を聞いた。
「キスしたことある?」
「は?」
一瞬輝愛が凍りついた様に動かなくなり、彼の台詞が聞こえた数名は、何のこっちゃと言わんばかりに視線を這わせた。
「セクハラで訴えられちゃいますよ」
有住が苦笑しながら笹林に言うが、彼は『いやいや』と首を振り、
「ここのシーンでアリスとキスして貰おうと思ったんだけど、若いでしょ?駄目だったら悪いと思って」
「はあ」
「でもまあ、このシーンは重要だし、それで行くから、どの道やってもらうけど。宜しく」
「はあ」
全く持って、質問した意味を成さない会話である。
輝愛は話について行ってないのか、良く分かっていないのか、口を開けっ放しにしている。
隣に立つ有住が、
「・・・・輝愛ちゃん、意味分かってる?」
と不安げに聞くと、
「一応」
と、曖昧で頼りない返事が返って来た。
「嫌だったらダメモトでも言いな?僕からも頼んでみるし・・さすがに女の子のファーストキス奪うのは、仕事でも気が引けるし・・」
有住は照れた様に頬をぽりぽりとかきながら、輝愛の顔を覗き込む。
「いや、それはお仕事だし、お芝居だから良いんだけど、一個気になってて」
「何?」
覗き込んで問い掛ける有住に、輝愛はごくごくいつも通り普通に問い掛ける。
「鼻がぶつかるでしょ?」
「・・・・・・・・・・・・は?」
かなり遅れて、やっとこさ有住が絞り出した声に対し、輝愛は再び同じ言葉で問い掛ける。
「鼻と鼻がぶつかっちゃうでしょ?どうすれば良いの?」
きょとんとしたままの輝愛に、有住は脱力して彼女の足元にしゃがみ込み、
「・・・・・・それ・・・本気だよね・・・ギャグじゃなくて・・」
「残念ながら、あたしはいつでも大真面目ですよ」
有住はしゃがみ込んだままの姿勢で、『はああ』と大きくため息をつき、後ろ手に頭をぐしゃぐしゃに掻きむしった。
「どしたの?ありすさん」
「・・・・・・・・荷が重いだけです・・」
「?」
未だにきょろんとしている彼女に、ささやかな殺意さえ抱きつつ、有住は立ち上がって笹林に怒鳴る。
「僕の方が嫌ですよー!なんかすごい責任重大じゃないですかー!」
「ん、まあ頑張れ、若人よ」
気持ちのこもっていない笹林のエールで、有住は再び赤くなった顔を隠す様に頭を抱えた。
・・・ちかちゃんがキレそうね、こりゃ・・
ちゃっかり演出助手の椅子に腰掛けた珠子は、半眼になって頬杖をついた。
ふと目の合った橋本が、珠子よりも複雑そうな顔で、大げさに肩をすくませた。
・・・個人的には、面白そうだけどね・・
魔王珠子は、例の魔王使用の微笑みで、一人ほくそえんだ。
■こんぺいとう 4 あくとあくたーず5 ■
千影は少々、いや、大分ぐったりしていた。
別に稽古が物凄くハードで寝る時間が無いとか、殺陣練習で満身創痍とか、そう言った類では無いのだが。
ようやく帰宅し、愛しいソファーベッドに身を預けたまま、煙草を咥えたままで、例の台本をめくる。
立ち稽古に入ったのに、台詞を未だに覚えていない訳では無い。
勿論自身の台詞など、とっくの昔に完璧に頭に入っているし、数多くの切っ掛けは、自分自身が出ていないシーンのものですら記憶している程だ。
しかし、全部のシーンの台詞を暗記して、その各役者の動きまでマスターしたかと言われれば、それは否、だ。
最も、そんな事は必要ないのだから、本来気にする必要は無いのだが。
「今日は・・・ここか」
胡座をかいた膝の上に台本を置き、最近邪魔になって来た髪の毛を適当に一つに束ねる。
一回二つに束ねたことがあったのだが、何故か輝愛の猛反対にあったのだ。
自分的には、なかなか上手く結べたと思っていたのだが、彼女の反対の理由は、そんな事では無かったらしい。
千影は風呂上りで火照った頭を冷やすかのように、冷蔵庫にあったビールを流し込んだ。
「かーわーはーすぃー」
パタパタとスリッパの音が聞こえ、すぐに娘分の輝愛の姿が現れる。
髪の毛を乾かすのもそこそこに、手首をうにうに回しながら、千影の横に座り込む。
「宜しくお願い致す」
言って、ぺこりと頭を下げるその仕草が、可愛らしいのだが、それが逆に無償に癇に障る。
千影はタオルを輝愛の頭に乗せ、わしわしと荒っぽく水気を拭くと、そのまま彼女の肩に腕を置いて台本をめくった。
そう、彼はこの娘の台詞合わせに、この所毎晩付き合わされているのである。
最も、輝愛と千影は絡みも多いから、自分と彼女のシーンの芝居を練習する分には、ある意味願ったりなのだが、全く関係無い役の芝居までやらねばならず、ここのところは少々お疲れ気味な千影なのであった。
その上、輝愛の芝居がどうやっても初演の可奈子とダブって見えてしまい、それだまた千影の気に障るのだ。
輝愛は可奈子では無いのだから、どうと言う事は無いのだろうが、頭では分かっていても、そうそう簡単には行かないらしい。
千影は、人肌が恋しい子供の様に輝愛の頭に自分の頭をくっ付け、台詞を読み始める。
輝愛は一瞬少し驚いた様に目だけで彼を眺めたが、すぐに自分の台詞になり、慌てて続けた。
一回軽く台詞を合わせ、今日稽古で付けられた動きの確認の為、立ち稽古に移る。
最も、二人とも風呂上りで、千影はTシャツにジャージ、輝愛はキャミソールにセットのパンツ、仲良く首にはタオルと言うスタイルなので、ちっとも様にはなっていないが。
『何だ・・・お前』
『私は、あやめ』
『あやめ・・・?』
今日演出から指示された動きを再現する輝愛。
対して他人に付けられた演出であるはずなのに、それこそそのままに体現してみせる千影。
この自宅稽古を始めて分かった事だが、千影は他の役者のコピーが恐ろしく天才的であると言う事だ。
輝愛にとっても、勿論現場での代役やコピー役としても、文句の付け様が無かった。
だからと言って、彼自身の芝居が誰かの模倣か、と言うと、そうでもない。
芝居をする為にいる人間のようだ、輝愛は思ったが、本人がそれについては何故か照れがあるらしく、言葉にして伝えてもはぐらかされるだけだった。
『あやめが、何の用だ』
『お前に、私の記憶を』
『は?』
『私の記憶を、渡そう』
ここは有住と輝愛の二人だけのシーンである。
当然千影が演じているのは有住の役だから、女役である。
このまさに、それこそ男臭い男が、女形の動きをしていると考えると、空恐ろしいものがあるが、その違和感すら感じさせない位、千影は女形の、有住の役をこなす。当の相手役の輝愛も、千影がこの役だったのかと錯覚しそうになる程、彼の芝居は完璧に有住だった。
『さあ、この雫をお飲み。さすれば――』
千影が輝愛に近付き、彼女の顎に手をかけた瞬間、彼女はつばめから輝愛に立ち戻り、きょろんとした瞳で彼を揺さぶる。
「ここ!ここ、演出変わったの。えっと・・・コレ!」
輝愛は慌てて自分の台本をめくり、書き込みを千影に指し示す。
「どれどれ」
輝愛から台本を受け取って、書き込みを読み進める。
最初は『ふんふん』頷いていたが、やがて表情が厳しくなり、眉間に明らかに皺が寄る。
「・・・どしたの?」
おずおずと声をかける輝愛に、しかし千影は答えない。
その台本の一点を、睨み付けたままである。
「おーいカワハシ?かわちゃん?にーちゃん、アニキ、ちかちゃん?」
無言のままの千影に、ありとあらゆる呼び方で呼びかける輝愛。
最後の『ちかちゃん』に僅かに反応し、やっとこさ顔を上げた彼は、例の厳しい表情のままで、
「お前、これ、やるの・・・」
と、疲れたように声を絞り出した。
「これって、どれ」
輝愛は千影の腕の下から首を突っ込み、自分の台本に目を落とす。
「どれ」
ちょうどヘッドロックされているような体勢のまま、上目遣いに問い掛ける。
千影はわざと視線を外して、
「・・だから、キスシーン」
「あ、それか」
ようやく我が的を射たり、と輝愛はにこっ、と笑って、そのまま普通に『やるよー』と答えた。
「そう、それでね、聞きたい事があるですよ」
「・・・何ですよ」
壁際に置いてある、腰の高さ位までのチェストに腰掛けると、彼女は足をぷらぷらさせて、
「鼻はどうしたら良いの?」
「は?」
「鼻がキスするとぶつかると思うんだけど、どうやってへこますの?アリスさんに聞いたら、なんか頭抱えて次に笹林さんに怒鳴ってただけで、結局わかんない」
彼女の質問に、千影が固まる。
ぎこちない動きで残りのビールを飲み込むと、本気で悩んだ結果、ようやく口を開く。
「・・・・キスシーンが、あるんだよな?」
「そうです」
チェストの上でこっくり頷く輝愛。
「で、お前は鼻がぶつかると思ってる訳だな?」
「イエスマスター」
千影は痛むこめかみ押さえつつ、
「で、ぶつからないように、鼻をへこませたいと、そー言ってるんだな?お前は」
「そーっすよ?」
彼女の質問の意味を把握して、と言うより確認して、脱力したように膝に手を置き、うな垂れてため息を吐く。
「・・お前、人からかわいそうとか、天然とか、馬鹿とかアホとか言われるだろ」
「何故それを!カワハシってマジシャン?」
図星を突かれたのか、僅かに赤くなる輝愛。
しかしその返答はさっきの質問以上に意味不明である。
――マジシャンは無関係だろう・・
千影は娘分の本気のボケっぷりに、心の中で長い合掌をした。
「――とにかく、どう頑張っても鼻はへこまねーだろ。フツー。考えりゃ分かるだろーが」
「じゃあどーすんのさ」
微妙に機嫌を悪くしたらしい彼女が、何故かべらんめえ口調で聞いてくる。
「どーするって、だからこーやって」
言いつつ何気なく輝愛に顔を寄せ、そこで我に返り動きを止める。
輝愛は何故か欠片も動じずに、千影を眺めている。
「で?」
「で?・・・って・・・」
「続きは?」
問い詰められて、本気で不思議な汗が頬を伝う感触を覚えた。
ぐるぐるとその場で色んな事を考えて、結局輝愛の唇に自分の手を被せて、その上から軽く、ちゅっ、とキスを落とした。
「おわり?」
「へ?」
思いもよらぬ娘分の台詞に、千影は腰が砕けそうになる。
「何だよ・・・」
普通に見詰められているだけなのに、背中に嫌な汗をたくさんかいている。
と言う事は、自分は何か後ろ暗い事があるのだろうか。
しばし、いや、実際はほんの僅かな間の見詰め合いが続いた後、
「まいっか。ありがとうです」
言ってぴょこんとチェストから降りる彼女。
千影は、何に対しての礼なのか分からなかったが、『おう』とだけ答えた。
そして後ろ手で頭をばりばりと掻きむしった。
――中学生か、俺は。
テーブルの上にあったビールの缶を持ち上げると、どうやら空のようだった。
千影はビールを諦め、洗面所に足を向ける。
一寸先に辿りついていたらしい輝愛が、口に歯ブラシを咥えている。
――この鈍さが、今はとても憎たらしい。
口には出さず、自分も歯ブラシを咥えると、並んで仲良く・・かどうかは分からないが、歯を磨く。
「初めてのキスくらいさ、好きな奴とした方が良いと思うぞ、おとーさんとしては」
器用に喋る千影に対し、輝愛は必死に答えようとするのだが、
「らひよふふやよあはひひふむげぐっ!」
必死に何かを訴えているらしい輝愛だったが、人間語しか理解出来ない千影には伝わらない。
「・・・・・・取り合えず、口すすげ」
千影は呆れたように目を細めた。
「だからね!」
ものすごい勢いで口をゆすいだ愛娘が、ものすごい勢いで話し始める。
「ちゃんとすきだから平気よ」
にっこりして言う輝愛に、千影はやや間を置いて、
「好きって・・・浩春を?」
「そう」
にっこにっこして言う輝愛に、彼の身体が一瞬強張る。
「そっか、なら、平気だな」
――浩春がどう思ってるかはともかくとして・・輝愛を泣かせたらぶっ殺す!!
不器用な自称父親分は、何も悪くない後輩を呪いながら、勢い良くうがいをかます。
「珠子さんも、社長も、大輔お兄ちゃんも、勇也さんも、みんなみーんな好き」
一人殺意を抱いている千影に気付かずに、嬉しそうに言葉を続ける輝愛。
「カワハシも、ちゃんと大好き」
「――は?」
思わず間の抜けた声で、顔を上げて問い返す。
そこには、いつも通りの彼女の笑顔。
「だから、みんなみんな好き。カワハシ、大好き」
正直、動けなかった。
どうして良いか分からなくて、すぐに身体が反応しなかった。
それでも、硬直状態から立ち直った彼は、彼にとってのなかなか大胆な告白をかましてくれた彼女を抱え上げ、そのままベッドに突っ込んだ。
「俺は案外若いらしいぞ」
「なにそれ、一回り違うんじゃなかったっけ?」
千影に抱き締められるのが心地良いのか、ごろごろと猫みたいに懐く輝愛。
「やばいぞ」
「何が」
「色々だ」
彼女にこの恐らく緩んだ顔を見せる訳には行かなくて、千影は大慌てでリモコンを探し当て、電気を消す。
「おやすみなさい」
「ん」
自分の胸に擦り寄る様にくっつく彼女を抱き締めて、千影はぽふっ、と身体の力を抜いた。
顔が緩んでる。多分本気で緩んでる。
・・・なっさけなー・・・
自分だけ、自分の時だけ彼女が『大好き』と言っただけで、こんな状態なのだ。
他の連中は、『好き』止まりだったからな。ちょっとは、上って事なのかな。
これは、やっぱり裏切りになるんだろうか。
だとしたら俺はどうすべきだろう。やっぱり、今まで通りにすべきだろう。
それは分かっている。
そうしなきゃいけないのも、そうすべきなのも、分かってるよ。
だけどせめて、今彼女を抱き締める位、許してくれ。
頼むよ、なあ――
千影は少々、いや、大分ぐったりしていた。
別に稽古が物凄くハードで寝る時間が無いとか、殺陣練習で満身創痍とか、そう言った類では無いのだが。
ようやく帰宅し、愛しいソファーベッドに身を預けたまま、煙草を咥えたままで、例の台本をめくる。
立ち稽古に入ったのに、台詞を未だに覚えていない訳では無い。
勿論自身の台詞など、とっくの昔に完璧に頭に入っているし、数多くの切っ掛けは、自分自身が出ていないシーンのものですら記憶している程だ。
しかし、全部のシーンの台詞を暗記して、その各役者の動きまでマスターしたかと言われれば、それは否、だ。
最も、そんな事は必要ないのだから、本来気にする必要は無いのだが。
「今日は・・・ここか」
胡座をかいた膝の上に台本を置き、最近邪魔になって来た髪の毛を適当に一つに束ねる。
一回二つに束ねたことがあったのだが、何故か輝愛の猛反対にあったのだ。
自分的には、なかなか上手く結べたと思っていたのだが、彼女の反対の理由は、そんな事では無かったらしい。
千影は風呂上りで火照った頭を冷やすかのように、冷蔵庫にあったビールを流し込んだ。
「かーわーはーすぃー」
パタパタとスリッパの音が聞こえ、すぐに娘分の輝愛の姿が現れる。
髪の毛を乾かすのもそこそこに、手首をうにうに回しながら、千影の横に座り込む。
「宜しくお願い致す」
言って、ぺこりと頭を下げるその仕草が、可愛らしいのだが、それが逆に無償に癇に障る。
千影はタオルを輝愛の頭に乗せ、わしわしと荒っぽく水気を拭くと、そのまま彼女の肩に腕を置いて台本をめくった。
そう、彼はこの娘の台詞合わせに、この所毎晩付き合わされているのである。
最も、輝愛と千影は絡みも多いから、自分と彼女のシーンの芝居を練習する分には、ある意味願ったりなのだが、全く関係無い役の芝居までやらねばならず、ここのところは少々お疲れ気味な千影なのであった。
その上、輝愛の芝居がどうやっても初演の可奈子とダブって見えてしまい、それだまた千影の気に障るのだ。
輝愛は可奈子では無いのだから、どうと言う事は無いのだろうが、頭では分かっていても、そうそう簡単には行かないらしい。
千影は、人肌が恋しい子供の様に輝愛の頭に自分の頭をくっ付け、台詞を読み始める。
輝愛は一瞬少し驚いた様に目だけで彼を眺めたが、すぐに自分の台詞になり、慌てて続けた。
一回軽く台詞を合わせ、今日稽古で付けられた動きの確認の為、立ち稽古に移る。
最も、二人とも風呂上りで、千影はTシャツにジャージ、輝愛はキャミソールにセットのパンツ、仲良く首にはタオルと言うスタイルなので、ちっとも様にはなっていないが。
『何だ・・・お前』
『私は、あやめ』
『あやめ・・・?』
今日演出から指示された動きを再現する輝愛。
対して他人に付けられた演出であるはずなのに、それこそそのままに体現してみせる千影。
この自宅稽古を始めて分かった事だが、千影は他の役者のコピーが恐ろしく天才的であると言う事だ。
輝愛にとっても、勿論現場での代役やコピー役としても、文句の付け様が無かった。
だからと言って、彼自身の芝居が誰かの模倣か、と言うと、そうでもない。
芝居をする為にいる人間のようだ、輝愛は思ったが、本人がそれについては何故か照れがあるらしく、言葉にして伝えてもはぐらかされるだけだった。
『あやめが、何の用だ』
『お前に、私の記憶を』
『は?』
『私の記憶を、渡そう』
ここは有住と輝愛の二人だけのシーンである。
当然千影が演じているのは有住の役だから、女役である。
このまさに、それこそ男臭い男が、女形の動きをしていると考えると、空恐ろしいものがあるが、その違和感すら感じさせない位、千影は女形の、有住の役をこなす。当の相手役の輝愛も、千影がこの役だったのかと錯覚しそうになる程、彼の芝居は完璧に有住だった。
『さあ、この雫をお飲み。さすれば――』
千影が輝愛に近付き、彼女の顎に手をかけた瞬間、彼女はつばめから輝愛に立ち戻り、きょろんとした瞳で彼を揺さぶる。
「ここ!ここ、演出変わったの。えっと・・・コレ!」
輝愛は慌てて自分の台本をめくり、書き込みを千影に指し示す。
「どれどれ」
輝愛から台本を受け取って、書き込みを読み進める。
最初は『ふんふん』頷いていたが、やがて表情が厳しくなり、眉間に明らかに皺が寄る。
「・・・どしたの?」
おずおずと声をかける輝愛に、しかし千影は答えない。
その台本の一点を、睨み付けたままである。
「おーいカワハシ?かわちゃん?にーちゃん、アニキ、ちかちゃん?」
無言のままの千影に、ありとあらゆる呼び方で呼びかける輝愛。
最後の『ちかちゃん』に僅かに反応し、やっとこさ顔を上げた彼は、例の厳しい表情のままで、
「お前、これ、やるの・・・」
と、疲れたように声を絞り出した。
「これって、どれ」
輝愛は千影の腕の下から首を突っ込み、自分の台本に目を落とす。
「どれ」
ちょうどヘッドロックされているような体勢のまま、上目遣いに問い掛ける。
千影はわざと視線を外して、
「・・だから、キスシーン」
「あ、それか」
ようやく我が的を射たり、と輝愛はにこっ、と笑って、そのまま普通に『やるよー』と答えた。
「そう、それでね、聞きたい事があるですよ」
「・・・何ですよ」
壁際に置いてある、腰の高さ位までのチェストに腰掛けると、彼女は足をぷらぷらさせて、
「鼻はどうしたら良いの?」
「は?」
「鼻がキスするとぶつかると思うんだけど、どうやってへこますの?アリスさんに聞いたら、なんか頭抱えて次に笹林さんに怒鳴ってただけで、結局わかんない」
彼女の質問に、千影が固まる。
ぎこちない動きで残りのビールを飲み込むと、本気で悩んだ結果、ようやく口を開く。
「・・・・キスシーンが、あるんだよな?」
「そうです」
チェストの上でこっくり頷く輝愛。
「で、お前は鼻がぶつかると思ってる訳だな?」
「イエスマスター」
千影は痛むこめかみ押さえつつ、
「で、ぶつからないように、鼻をへこませたいと、そー言ってるんだな?お前は」
「そーっすよ?」
彼女の質問の意味を把握して、と言うより確認して、脱力したように膝に手を置き、うな垂れてため息を吐く。
「・・お前、人からかわいそうとか、天然とか、馬鹿とかアホとか言われるだろ」
「何故それを!カワハシってマジシャン?」
図星を突かれたのか、僅かに赤くなる輝愛。
しかしその返答はさっきの質問以上に意味不明である。
――マジシャンは無関係だろう・・
千影は娘分の本気のボケっぷりに、心の中で長い合掌をした。
「――とにかく、どう頑張っても鼻はへこまねーだろ。フツー。考えりゃ分かるだろーが」
「じゃあどーすんのさ」
微妙に機嫌を悪くしたらしい彼女が、何故かべらんめえ口調で聞いてくる。
「どーするって、だからこーやって」
言いつつ何気なく輝愛に顔を寄せ、そこで我に返り動きを止める。
輝愛は何故か欠片も動じずに、千影を眺めている。
「で?」
「で?・・・って・・・」
「続きは?」
問い詰められて、本気で不思議な汗が頬を伝う感触を覚えた。
ぐるぐるとその場で色んな事を考えて、結局輝愛の唇に自分の手を被せて、その上から軽く、ちゅっ、とキスを落とした。
「おわり?」
「へ?」
思いもよらぬ娘分の台詞に、千影は腰が砕けそうになる。
「何だよ・・・」
普通に見詰められているだけなのに、背中に嫌な汗をたくさんかいている。
と言う事は、自分は何か後ろ暗い事があるのだろうか。
しばし、いや、実際はほんの僅かな間の見詰め合いが続いた後、
「まいっか。ありがとうです」
言ってぴょこんとチェストから降りる彼女。
千影は、何に対しての礼なのか分からなかったが、『おう』とだけ答えた。
そして後ろ手で頭をばりばりと掻きむしった。
――中学生か、俺は。
テーブルの上にあったビールの缶を持ち上げると、どうやら空のようだった。
千影はビールを諦め、洗面所に足を向ける。
一寸先に辿りついていたらしい輝愛が、口に歯ブラシを咥えている。
――この鈍さが、今はとても憎たらしい。
口には出さず、自分も歯ブラシを咥えると、並んで仲良く・・かどうかは分からないが、歯を磨く。
「初めてのキスくらいさ、好きな奴とした方が良いと思うぞ、おとーさんとしては」
器用に喋る千影に対し、輝愛は必死に答えようとするのだが、
「らひよふふやよあはひひふむげぐっ!」
必死に何かを訴えているらしい輝愛だったが、人間語しか理解出来ない千影には伝わらない。
「・・・・・・取り合えず、口すすげ」
千影は呆れたように目を細めた。
「だからね!」
ものすごい勢いで口をゆすいだ愛娘が、ものすごい勢いで話し始める。
「ちゃんとすきだから平気よ」
にっこりして言う輝愛に、千影はやや間を置いて、
「好きって・・・浩春を?」
「そう」
にっこにっこして言う輝愛に、彼の身体が一瞬強張る。
「そっか、なら、平気だな」
――浩春がどう思ってるかはともかくとして・・輝愛を泣かせたらぶっ殺す!!
不器用な自称父親分は、何も悪くない後輩を呪いながら、勢い良くうがいをかます。
「珠子さんも、社長も、大輔お兄ちゃんも、勇也さんも、みんなみーんな好き」
一人殺意を抱いている千影に気付かずに、嬉しそうに言葉を続ける輝愛。
「カワハシも、ちゃんと大好き」
「――は?」
思わず間の抜けた声で、顔を上げて問い返す。
そこには、いつも通りの彼女の笑顔。
「だから、みんなみんな好き。カワハシ、大好き」
正直、動けなかった。
どうして良いか分からなくて、すぐに身体が反応しなかった。
それでも、硬直状態から立ち直った彼は、彼にとってのなかなか大胆な告白をかましてくれた彼女を抱え上げ、そのままベッドに突っ込んだ。
「俺は案外若いらしいぞ」
「なにそれ、一回り違うんじゃなかったっけ?」
千影に抱き締められるのが心地良いのか、ごろごろと猫みたいに懐く輝愛。
「やばいぞ」
「何が」
「色々だ」
彼女にこの恐らく緩んだ顔を見せる訳には行かなくて、千影は大慌てでリモコンを探し当て、電気を消す。
「おやすみなさい」
「ん」
自分の胸に擦り寄る様にくっつく彼女を抱き締めて、千影はぽふっ、と身体の力を抜いた。
顔が緩んでる。多分本気で緩んでる。
・・・なっさけなー・・・
自分だけ、自分の時だけ彼女が『大好き』と言っただけで、こんな状態なのだ。
他の連中は、『好き』止まりだったからな。ちょっとは、上って事なのかな。
これは、やっぱり裏切りになるんだろうか。
だとしたら俺はどうすべきだろう。やっぱり、今まで通りにすべきだろう。
それは分かっている。
そうしなきゃいけないのも、そうすべきなのも、分かってるよ。
だけどせめて、今彼女を抱き締める位、許してくれ。
頼むよ、なあ――
■こんぺいとう 4 あくとあくたーず6 ■
「おはようございまーっす」
輝愛のいつも通りの呑気に晴れやかな声が、稽古場に響き渡る。
「お、はよー」
「はよっす」
彼女(と、彼・・もとい、自称親代わりの三十路男)よりも早く稽古場入りしている人間は、毎度の事ながら決まったメンバーである。
輝愛に次いで若年の有住浩春と、どこかしら掴めない雰囲気で、やや線の細い感のある志井大輔である。
二人は各自勝手に身体を伸ばしており、その姿勢のまま、首だけを向けての挨拶である。
「あのさ、輝愛ちゃん」
着替え終えて早速アップを始める彼女に、てこてこと近寄り、耳元で話しかける有住。
「はいな?」
前屈の要領で、座った状態で足首を「これでもか!」とばかりに鷲掴みにしている輝愛は、そのままの体勢で器用に顔だけを有住に向ける。
「昨日の・・・」
彼はバツが悪そうに人差し指で頬を引っ掻きながら、
「ぶっちゃけ、どうするのさ?」
「どれのこと?」
男性にしては珍しいさらさらの髪の毛をなびかせて、有住が床に突っ伏す。
「どれって・・・アレしかないでしょうに・・」
「・・・・・」
脱力しきった有住の横で、十分に身体を伸ばす輝愛。
ひょっこんと立ち上がり、「ん~」と言いながら伸びをして、そこでやっと口を開く。
「ああ、キスシーンの事?もしかして」
「って、今まで悩んでたの!?何その鈍い脳みそ!?」
いつでも本気、良くも悪くも大真面目な輝愛に、それこそこちらも本気で怒鳴りツッコミを入れる。
「あははは」
「あははじゃないよ?二十歳前にして脳細胞イカレてない?輝愛ちゃん」
笑って済まそうとしたのかは定かではないが、その輝愛に辛辣で、しかしながら的確な意見を告げる有住。
「・・・・」
その台詞に、今度は本気で青くなり、見る間に落ち込む輝愛。
「ああ!?嘘!冗談!・・って、冗談でも無いけど・・ってゆーか、輝愛ちゃん鈍いのは今に始まった事じゃないのに、つい突っ込んじゃってゴメン!」
「鈍いらしいって事は、皆に言われてるんで認めます・・」
苦笑しながら頭をぽりぽりやる輝愛。
「で」
「はい?」
「はいじゃないでしょ!」
いかにも「分かってない」状態の輝愛に、再び怒鳴る有住。
見た目の男らしさからは幾分かけ離れた所にある容姿の彼も、実際蓋を開けて見れば二十歳の若年の青年でしかない。
「どうすんの!輝愛ちゃんやるの?」
「やるですよ」
「どうやって?」
訝しげな視線と共に、矢継ぎ早な質問が浴びせかけられる。
最もな意見である。
昨日「鼻がぶつかる」発言をした娘である。その娘の「やります」宣言も、本当の所実際の意味が分かっているのか、有住が不安になるのも頷ける事だった。
「だいじょぶですって。あたしもちゃんとお芝居練習してますって」
「そりゃあまあそうだけど・・・・」
半眼になってみるも、当の彼女はにへら~と笑ってみせるだけで、有住のこの怒りだかなんだか良く分からないもやもやをどうする事も出来ず、視線を走らせた。
交差した視線の先には、先輩、志井大輔の姿。
後輩からの所謂「SOS」を受け取ったにも関わらず、大輔はいつも通りの人当たりの良い笑みを崩さないまま、そして無常にも有住の真横を面白そうに通り過ぎたのであった。
「げ、大輔さん!?」
「あはは~」
泣き声じみた声を上げた後輩を、生易しく放置する先輩の生暖かい声。
このチームは、本当に仲が良いのだろうかと、有住が不安に陥る瞬間である。
先輩連中から言わせれば、これこそが仲が良い証拠だと言われるのだが、輝愛が入るまで最年少だった有住は、いささか毎回不安に陥っている。
「ありすさん、あたしはへーきよ」
「・・・そうですか・・・?」
有住は、朝っぱら、稽古前から、何故だかかなり疲労した気がしたのだった。
◇
稽古中の稽古場。
板の上。
そこの上に立つ、チーム最若年の二人。
二人の間・・もとい、片方のみは、ひどく緊張していた。
「・・・・頼むよ、輝愛ちゃん」
有住は、誰にも聞き取れないくらいの小声で、小さく彼女―向かいに佇んでいる輝愛―に呟く。
最も、有住自身にも聞き取れるか否かの小声が、実際彼女に届く筈はないのだが。
心が通じたのか、輝愛は有住を見て「にぱ」(注:輝愛が表現するとこんな擬音らしい)と微笑む。
演出の笹林の支持で、例のシーンの確認に入る。
稽古場での稽古とは言え、劇場入りも間近に迫っている今、衣装やメイクは無いものの、音響等の効果も当然参加しての稽古だ。
抜きでの通し稽古の様な状態である。
当然、既に芝居の全てに演出が付け終えられており、今は確認及び熟読する期間のようなものだ。
「じゃ、行きマース。はい」
いささか緊張感にかける笹林の声で、音響担当がバックに流れる音楽の音を上げ、二人の芝居が始まる。
つばめに扮した輝愛が、上手から板の上に走る。
何かに弾かれた様に背後に振り向く。
音響担当の、絶妙な間でのきっかけの音が入る。
・・・・うん。
笹林が『演出さんの椅子』と自ら張り紙した椅子に腰掛けたまま、低い声で頷く。
どうやら、輝愛の演技も彼の及第点に達したらしい。
ちなみに、演出の笹林の横に座る、演出助手の菊本の椅子にも、『助手さんの椅子』の張り紙がある。
演出と演出助手は、無言のまま一瞬目を合わせて、にやりと微笑んだ。
例のシーンである。
『何だ、お前』
『私は、あやめ』
『あやめ・・?』
板の上、ほぼ中央で、二人の芝居が進む。
音響担当も、電飾担当も、見せ場のシーンに食い入るように見つめている。
最も、手は全て機材の上で、絶妙のタイミングを計っているのではあるが。
『そのあやめが、何の用だ』
いつもの輝愛からは想像出来ないような声で、しかも芝居でしか今のところ見る事が出来ないほどの、俗に言う不愉快な顔で、彼女はあやめ、有住に向き直る。
『お前に私の記憶を』
『・・・は?』
『お前に、私の、記憶を、渡そう』
ゆらり、と足音も無く近付く有住。
ようやく何とか騙し騙しながらも形になった、女形の足運びである。
女形を教えた師匠の大輔も、いつも通りの柔和な笑みを浮かべている。
こちらも及第点の様である。
『何を・・・』
輝愛の台詞をきっかけに、有住が動き、バックに流れる音が高くなっていく。
『お前は動けない
お前は私
私はお前
私の全て
飲み込むが良い』
朗々と言い放つと、舞台中央で立て膝になっている輝愛に、有住が彼女の顎を持ち上げる。
『つばめ』の目が、畏れと緊張で見開かれる。
『あやめ』が静かに、彼女の唇に口付け、息を吹き込む。
共に瞳は開いたまま。
『つばめ』は彼女を突き飛ばし、腕で口を拭う。
『何しやが・・・う・・・お前・・何しやがった・・・』
にわかに苦しむ『つばめ』。
それを静かな表情で見詰める『あやめ』。
二人が対峙するように立ち、『つばめ』が悲鳴を上げる。
バックの音が弾け飛び、暗転。
「・・・・・あの?」
あやめから戻った有住が、笹林の方を怪訝そうな顔で見ている。
「ん?あ?ああ、ごめんごめん、見入ってた。一端ここで切りますね」
笹林は掛けられた声にようやく言葉を発し、椅子から立ち上がる。
未だに座り込んだままの助手、菊本に振り返り、
「大正解だったでしょ、菊ちゃん」
と言って、満足そうに笑った。
◇
ふう、と一息小さく息を吐き、何故だか酷く疲れた気がする肩や首を回して、有住は横で水のペットボトルを口だけでくわえている輝愛に話しかける。
「輝愛ちゃんどしたの?」
「何がですか」
ペットボトルを口から手に持ち替え、いつものきょろんとした目で聞き返す。
「いや、やけに普通に頂けたので」
ファーストキスを、と言いかけて、恥ずかしくなってそこで止める。
「何を」
有住は目の前の、僅か2、3歳しか違わない娘の鈍さに、再び頭を抱えながら、
「キスだよキス!ちゅーのシーン!」
「えっへへ」
「何が可笑しいの?頭平気?」
自分だけ照れているのが恥ずかしいのもあって、有住は笑う輝愛の頭を軽く小突く。
「昨日『鼻がぶつかる』って言ってたのに。同じ人間とは思えない」
「秘密があるですよ」
輝愛は得意満面で答える。
有住は未だに胡散臭そうな顔で、彼女を見ている。
「秘密ぅ・・?なにそれ。それで上手くなるの?キスが?それとも芝居が?」
「多分両方」
何の疑いも無く答える輝愛に、有住も照れが退いてきたのか、普通に話し始める。
「どーすれば上手くなるの?昨日帰ってから何したのさ」
「うん、あのねー」
輝愛は及第点を貰えたのが嬉しいのか、にこにこしたよく通る声で、恥ずかしげも無く(それも大分大声で)言い放った。
「昨日の夜、カワハシと練習したのー」
一瞬、聞こえた人間が何の話だとばかりに振り向く。
ただ単に、輝愛の声のでかさに振り向いた人間も、相当数いたのだが。
「練習?」
「そう、練習」
輝愛の屈託の無い台詞に、しかし有住は一瞬考えてから、
「え、練習って、何の・・?」
「だから、今やったちゅーする・・」
すかけえええん!
「い、いったあああ~」
「輝愛ちゃん!?大丈夫!?」
清清しいくらいに響き渡った軽い音。
そして、何故か頭を抱えてうずくまる輝愛。
ちょっと先の床には、いまだくわんくわん回転している、アルミ製の灰皿。
「生きてるけど、うしろあたま痛い・・」
「あ~、こぶ出来てる。冷やしな」
涙を浮かべる輝愛に、濡らしたタオルを頭に乗っける有住。
しかし落ち着く間も無く、輝愛はずんずんとある一点を目指して歩き出す。
「ちょっとカワハシ!痛い!」
「知るか!」
そう、諸悪の根源、もとい、灰皿ストライクさせた張本人である。
「何で投げるの。あたし何もしてないじゃん」
「してなくても言った!」
片手に煙草持ったまま、さも不機嫌そうに娘分を頭ごなしに怒鳴る。
まるで子供の喧嘩の様ではあるが。
「何をよー」
輝愛は未だ痛むのか、後ろ頭をさすりさすり反論する。
そこでいよいよこめかみの辺りを痙攣させた千影は、声を低くし、輝愛とおでこがくっつく位に近付いて、
「・・・・何でもいいから、余計な事言うな!」
「何、余計って」
「何でもだ!大人の世界は難しいの!」
「・・・・・ぶー」
ようやく大人しくなった輝愛が、両のほっぺた膨らませて不満な顔を作るが、すぐにきょろんと目の前の千影を見上げて、不思議そうな顔をする。
「・・・・?」
「何だよ」
いきなり大人しくなった娘分に見上げられ、さっきまでの勢いは何処へやら。
「カワハシ、赤い?」
「え?」
下から覗き込まれて、輝愛の顔が余計近付く。
もう少しで触れそうなくらいまで、だ。
「顔」
「!!」
言い当てられて、大急ぎで輝愛を引き離し、踵を返して歩き出す千影。
「どこ行くの」
「便所!」
怒鳴るように言い捨てて、そのまま早足で稽古場から出て行く千影。
「何なんでしょ」
残された輝愛は、こぶをさすりながら、首を傾げた。
「おはようございまーっす」
輝愛のいつも通りの呑気に晴れやかな声が、稽古場に響き渡る。
「お、はよー」
「はよっす」
彼女(と、彼・・もとい、自称親代わりの三十路男)よりも早く稽古場入りしている人間は、毎度の事ながら決まったメンバーである。
輝愛に次いで若年の有住浩春と、どこかしら掴めない雰囲気で、やや線の細い感のある志井大輔である。
二人は各自勝手に身体を伸ばしており、その姿勢のまま、首だけを向けての挨拶である。
「あのさ、輝愛ちゃん」
着替え終えて早速アップを始める彼女に、てこてこと近寄り、耳元で話しかける有住。
「はいな?」
前屈の要領で、座った状態で足首を「これでもか!」とばかりに鷲掴みにしている輝愛は、そのままの体勢で器用に顔だけを有住に向ける。
「昨日の・・・」
彼はバツが悪そうに人差し指で頬を引っ掻きながら、
「ぶっちゃけ、どうするのさ?」
「どれのこと?」
男性にしては珍しいさらさらの髪の毛をなびかせて、有住が床に突っ伏す。
「どれって・・・アレしかないでしょうに・・」
「・・・・・」
脱力しきった有住の横で、十分に身体を伸ばす輝愛。
ひょっこんと立ち上がり、「ん~」と言いながら伸びをして、そこでやっと口を開く。
「ああ、キスシーンの事?もしかして」
「って、今まで悩んでたの!?何その鈍い脳みそ!?」
いつでも本気、良くも悪くも大真面目な輝愛に、それこそこちらも本気で怒鳴りツッコミを入れる。
「あははは」
「あははじゃないよ?二十歳前にして脳細胞イカレてない?輝愛ちゃん」
笑って済まそうとしたのかは定かではないが、その輝愛に辛辣で、しかしながら的確な意見を告げる有住。
「・・・・」
その台詞に、今度は本気で青くなり、見る間に落ち込む輝愛。
「ああ!?嘘!冗談!・・って、冗談でも無いけど・・ってゆーか、輝愛ちゃん鈍いのは今に始まった事じゃないのに、つい突っ込んじゃってゴメン!」
「鈍いらしいって事は、皆に言われてるんで認めます・・」
苦笑しながら頭をぽりぽりやる輝愛。
「で」
「はい?」
「はいじゃないでしょ!」
いかにも「分かってない」状態の輝愛に、再び怒鳴る有住。
見た目の男らしさからは幾分かけ離れた所にある容姿の彼も、実際蓋を開けて見れば二十歳の若年の青年でしかない。
「どうすんの!輝愛ちゃんやるの?」
「やるですよ」
「どうやって?」
訝しげな視線と共に、矢継ぎ早な質問が浴びせかけられる。
最もな意見である。
昨日「鼻がぶつかる」発言をした娘である。その娘の「やります」宣言も、本当の所実際の意味が分かっているのか、有住が不安になるのも頷ける事だった。
「だいじょぶですって。あたしもちゃんとお芝居練習してますって」
「そりゃあまあそうだけど・・・・」
半眼になってみるも、当の彼女はにへら~と笑ってみせるだけで、有住のこの怒りだかなんだか良く分からないもやもやをどうする事も出来ず、視線を走らせた。
交差した視線の先には、先輩、志井大輔の姿。
後輩からの所謂「SOS」を受け取ったにも関わらず、大輔はいつも通りの人当たりの良い笑みを崩さないまま、そして無常にも有住の真横を面白そうに通り過ぎたのであった。
「げ、大輔さん!?」
「あはは~」
泣き声じみた声を上げた後輩を、生易しく放置する先輩の生暖かい声。
このチームは、本当に仲が良いのだろうかと、有住が不安に陥る瞬間である。
先輩連中から言わせれば、これこそが仲が良い証拠だと言われるのだが、輝愛が入るまで最年少だった有住は、いささか毎回不安に陥っている。
「ありすさん、あたしはへーきよ」
「・・・そうですか・・・?」
有住は、朝っぱら、稽古前から、何故だかかなり疲労した気がしたのだった。
◇
稽古中の稽古場。
板の上。
そこの上に立つ、チーム最若年の二人。
二人の間・・もとい、片方のみは、ひどく緊張していた。
「・・・・頼むよ、輝愛ちゃん」
有住は、誰にも聞き取れないくらいの小声で、小さく彼女―向かいに佇んでいる輝愛―に呟く。
最も、有住自身にも聞き取れるか否かの小声が、実際彼女に届く筈はないのだが。
心が通じたのか、輝愛は有住を見て「にぱ」(注:輝愛が表現するとこんな擬音らしい)と微笑む。
演出の笹林の支持で、例のシーンの確認に入る。
稽古場での稽古とは言え、劇場入りも間近に迫っている今、衣装やメイクは無いものの、音響等の効果も当然参加しての稽古だ。
抜きでの通し稽古の様な状態である。
当然、既に芝居の全てに演出が付け終えられており、今は確認及び熟読する期間のようなものだ。
「じゃ、行きマース。はい」
いささか緊張感にかける笹林の声で、音響担当がバックに流れる音楽の音を上げ、二人の芝居が始まる。
つばめに扮した輝愛が、上手から板の上に走る。
何かに弾かれた様に背後に振り向く。
音響担当の、絶妙な間でのきっかけの音が入る。
・・・・うん。
笹林が『演出さんの椅子』と自ら張り紙した椅子に腰掛けたまま、低い声で頷く。
どうやら、輝愛の演技も彼の及第点に達したらしい。
ちなみに、演出の笹林の横に座る、演出助手の菊本の椅子にも、『助手さんの椅子』の張り紙がある。
演出と演出助手は、無言のまま一瞬目を合わせて、にやりと微笑んだ。
例のシーンである。
『何だ、お前』
『私は、あやめ』
『あやめ・・?』
板の上、ほぼ中央で、二人の芝居が進む。
音響担当も、電飾担当も、見せ場のシーンに食い入るように見つめている。
最も、手は全て機材の上で、絶妙のタイミングを計っているのではあるが。
『そのあやめが、何の用だ』
いつもの輝愛からは想像出来ないような声で、しかも芝居でしか今のところ見る事が出来ないほどの、俗に言う不愉快な顔で、彼女はあやめ、有住に向き直る。
『お前に私の記憶を』
『・・・は?』
『お前に、私の、記憶を、渡そう』
ゆらり、と足音も無く近付く有住。
ようやく何とか騙し騙しながらも形になった、女形の足運びである。
女形を教えた師匠の大輔も、いつも通りの柔和な笑みを浮かべている。
こちらも及第点の様である。
『何を・・・』
輝愛の台詞をきっかけに、有住が動き、バックに流れる音が高くなっていく。
『お前は動けない
お前は私
私はお前
私の全て
飲み込むが良い』
朗々と言い放つと、舞台中央で立て膝になっている輝愛に、有住が彼女の顎を持ち上げる。
『つばめ』の目が、畏れと緊張で見開かれる。
『あやめ』が静かに、彼女の唇に口付け、息を吹き込む。
共に瞳は開いたまま。
『つばめ』は彼女を突き飛ばし、腕で口を拭う。
『何しやが・・・う・・・お前・・何しやがった・・・』
にわかに苦しむ『つばめ』。
それを静かな表情で見詰める『あやめ』。
二人が対峙するように立ち、『つばめ』が悲鳴を上げる。
バックの音が弾け飛び、暗転。
「・・・・・あの?」
あやめから戻った有住が、笹林の方を怪訝そうな顔で見ている。
「ん?あ?ああ、ごめんごめん、見入ってた。一端ここで切りますね」
笹林は掛けられた声にようやく言葉を発し、椅子から立ち上がる。
未だに座り込んだままの助手、菊本に振り返り、
「大正解だったでしょ、菊ちゃん」
と言って、満足そうに笑った。
◇
ふう、と一息小さく息を吐き、何故だか酷く疲れた気がする肩や首を回して、有住は横で水のペットボトルを口だけでくわえている輝愛に話しかける。
「輝愛ちゃんどしたの?」
「何がですか」
ペットボトルを口から手に持ち替え、いつものきょろんとした目で聞き返す。
「いや、やけに普通に頂けたので」
ファーストキスを、と言いかけて、恥ずかしくなってそこで止める。
「何を」
有住は目の前の、僅か2、3歳しか違わない娘の鈍さに、再び頭を抱えながら、
「キスだよキス!ちゅーのシーン!」
「えっへへ」
「何が可笑しいの?頭平気?」
自分だけ照れているのが恥ずかしいのもあって、有住は笑う輝愛の頭を軽く小突く。
「昨日『鼻がぶつかる』って言ってたのに。同じ人間とは思えない」
「秘密があるですよ」
輝愛は得意満面で答える。
有住は未だに胡散臭そうな顔で、彼女を見ている。
「秘密ぅ・・?なにそれ。それで上手くなるの?キスが?それとも芝居が?」
「多分両方」
何の疑いも無く答える輝愛に、有住も照れが退いてきたのか、普通に話し始める。
「どーすれば上手くなるの?昨日帰ってから何したのさ」
「うん、あのねー」
輝愛は及第点を貰えたのが嬉しいのか、にこにこしたよく通る声で、恥ずかしげも無く(それも大分大声で)言い放った。
「昨日の夜、カワハシと練習したのー」
一瞬、聞こえた人間が何の話だとばかりに振り向く。
ただ単に、輝愛の声のでかさに振り向いた人間も、相当数いたのだが。
「練習?」
「そう、練習」
輝愛の屈託の無い台詞に、しかし有住は一瞬考えてから、
「え、練習って、何の・・?」
「だから、今やったちゅーする・・」
すかけえええん!
「い、いったあああ~」
「輝愛ちゃん!?大丈夫!?」
清清しいくらいに響き渡った軽い音。
そして、何故か頭を抱えてうずくまる輝愛。
ちょっと先の床には、いまだくわんくわん回転している、アルミ製の灰皿。
「生きてるけど、うしろあたま痛い・・」
「あ~、こぶ出来てる。冷やしな」
涙を浮かべる輝愛に、濡らしたタオルを頭に乗っける有住。
しかし落ち着く間も無く、輝愛はずんずんとある一点を目指して歩き出す。
「ちょっとカワハシ!痛い!」
「知るか!」
そう、諸悪の根源、もとい、灰皿ストライクさせた張本人である。
「何で投げるの。あたし何もしてないじゃん」
「してなくても言った!」
片手に煙草持ったまま、さも不機嫌そうに娘分を頭ごなしに怒鳴る。
まるで子供の喧嘩の様ではあるが。
「何をよー」
輝愛は未だ痛むのか、後ろ頭をさすりさすり反論する。
そこでいよいよこめかみの辺りを痙攣させた千影は、声を低くし、輝愛とおでこがくっつく位に近付いて、
「・・・・何でもいいから、余計な事言うな!」
「何、余計って」
「何でもだ!大人の世界は難しいの!」
「・・・・・ぶー」
ようやく大人しくなった輝愛が、両のほっぺた膨らませて不満な顔を作るが、すぐにきょろんと目の前の千影を見上げて、不思議そうな顔をする。
「・・・・?」
「何だよ」
いきなり大人しくなった娘分に見上げられ、さっきまでの勢いは何処へやら。
「カワハシ、赤い?」
「え?」
下から覗き込まれて、輝愛の顔が余計近付く。
もう少しで触れそうなくらいまで、だ。
「顔」
「!!」
言い当てられて、大急ぎで輝愛を引き離し、踵を返して歩き出す千影。
「どこ行くの」
「便所!」
怒鳴るように言い捨てて、そのまま早足で稽古場から出て行く千影。
「何なんでしょ」
残された輝愛は、こぶをさすりながら、首を傾げた。
カテゴリー
最新記事
(02/24)
(02/24)
(02/24)
(02/24)
(02/24)
カレンダー
最新コメント
プロフィール
HN:
mamyo
性別:
非公開
ブログ内検索