桃屋の創作テキスト置き場
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■こんぺいとう 2 ―おもちゃのトーイ― 2 ■
「・・・・・あ、あれ?」
「・・・・・・・・・・をい」
頬に一筋冷や汗を伝わせる彼女。
「あれ?じゃねえ」
怒気をはらんだ声で、不機嫌そうに眉をしかめる彼。
「あたし・・・いつの間に・・」
そう呟いて、刹那、はっとして、
「ああああああ、カ、カワハシ!一体あたしに何をしたー」
「何もしてねーよ」
「だったら、何であたしがココに居るの!?」
瞳に怒りの炎を浮かべ、あまつさえ涙なんぞ浮かべながら、彼女、高梨輝愛は、目の前の男、川橋千影のTシャツの襟元を掴んで、かっくんかっくんさせる。
「だああ!やめんかいクソガキ!」
千影が怒鳴り、彼女の両手を鷲掴みにし、そのままぐい、と持ち上げる。
輝愛は、丁度手枷をされたままバンザイをさせられるような状態になる。
そのまま千影は輝愛を見つめ―――
―――はあ。
一つため息をつく。
その様子を、まんじりともせず無言で口をとんがらせながら見つめている輝愛。
「・・・いいか、良く聞け」
千影は辛辣な面持ちで口を開く。
「――――お前は、病気だ」
◇
気が付くと、知らない部屋に居た。
ぼやける目をこすって、思考を起動させる。
白い天井。
グラスグリーンのカーテン。
畳の見当たらない室内。
そして、煙草の煙の匂い。
―――ああ、そうか。
むくりと起き上がり、やっと状況を把握する。
「・・・拾われたんだっけ、あたし」
借り物のTシャツとジャージに微かに染み付いた、煙草の匂いと、自分はつけたことが無いからよく分からないけど、恐らく香水の類の香り。
慣れないはずのその芳香に、何故か懐かしさすら覚えた。
「―――――煙草くさい」
「悪かったな。煙草くさくて」
ぽそりと呟いたつもりが、どうやら早々に起床していたらしい彼の耳には届いてしまったらしい。
「ひっ!」
驚いて小さく息を飲む。
その視線の先には、ダイニングテーブルに頬杖をつき、ホットコーヒーの入ったマグカップをもてあそびながら煙草をふかすという、何とも器用な真似をしている男。
「・・・・・・・・・オハヨウゴザイマス」
輝愛は、頬を引きつらせつつ布団を抱きしめ、小声で言った。
彼女は昨晩深夜、千影に拾われ、この家に連れてこられた。
帰宅するなり服をひっぺがされ、風呂に突っ込まれ、髪の毛を乾かす事すら忘れ、気付くと深い眠りの中に落ちていた。
だから、この彼、千影とちゃんと面と向かうのは、実は初めてだったりするのだ。
その第一声が、
「煙草くさい」
である。
輝愛からしてみれば、何のことは無い、寝起きの呆けた一言ではあるのだが。
相手に取ってはどうだろうか。
こんな、行く当てもない自分を拾ってくれた事に対する第一声が、そんな非難とも取れる発言だったとしたら。
怒るのも無理は無い。
至極道理である。
「トーイ」
声がした。
「トーイ」
見れば、彼がこっちを見つめ、おいでおいでと手をこまねいている。
「・・・・・トーイ?」
輝愛は訝しげに首を傾ぐ。
「そ。お前の事だ。『トーイ』」
彼は尚も手をこまねいている。
憮然とした表情で立ち上がり、彼のもとへと歩み寄る。
いきなり、おでこと首筋に大きなてのひらがあてがわれ、輝愛は思わず目を見開く。
「――?」
不思議そうな顔をして見つめる彼女を無視し、千影はわずかに表情を緩め、安堵とも取れるため息をついた。
「トーイ、お前、そこにある以外に服・・」
「だからトーイってのは?」
「・・丁度いいだろ、トーイで」
悪びれもせずに答える。
「あたしにも、高梨輝愛って言う、一応立派な名前があるんですけども」
「キア・・・・?何て字書くんだ?」
恐らく、音だけで漢字が想像つかなかったのだろう彼が、思案するような顔で宙を見つめて問う。
「輝く愛で、『キア』」
含み聞かせるように、ゆっくりと台詞を吐く。
「ふむ・・・」
何かしらひとしきり思案して、やがて納得したように息を漏らした。
「似合わん。トーイで充分」
一刀両断とは、まさにこの事か。
千影は表情を変えるでも無く、至極真面目に
「いいだろ、トーイで。はい決定~」
そう言って、パシッ、とダイニングテーブルを軽く叩いた。
「ちょっと、『決定~』って何でそんなおもちゃ呼ばわり・・・」
「おもちゃよばわりだと?」
助けてもらった恩も忘れたかのように、一気にまくしたてる輝愛に、しかし千影はわずかに首を傾げる。
「『トーイ』って、『おもちゃ』って意味でしょ」
そう言って、むーっ、と頬を膨らませる。
――――ナルホド、ね。それもそうか。
千影は心の中だけで納得の感嘆符を漏らし、すぐさま意地の悪い笑みを浮かべる。
「ってことでトーイ」
「輝愛です」
すぐさま突っ込みを入れる彼女を、またもあっさり無視して話を進める。
「俺は今日、不幸な事にお仕事がお休みだったりするのだ」
「―――?」
自慢げにふんぞり返って言う彼の真意が掴めず、眉間にシワをよせて見つめ返す。
「で、お前さんの持ち物は、アレだけだと見たんだが、違うか?」
そう言って輝愛の持っていた小さなカバンを指差した。
こっくりと、無言で頷く。
答えた輝愛に、どこか満足げに頷いてから。
「で、最初の問いに戻るわけだが、『服はそれしかないんだよな?』って聞こうとしたんだよ。俺は」
輝愛は、「ああ、その事か」と思い至って、再びこっくりと頷いた。
彼女のカバンには、着替えが一応入ってはいた。
入ってはいたが、一日分しかない。
つまり、昨日着ていた服と、カバンの中の服、二組しかないと言う事になる。
もともと、輝愛は「自分の物」の洋服は二組しか持っていないかった。
それ程、彼女と祖母の二人の暮らしは厳しかった。
いくつかもらい物もあったが、見ると祖母がいた頃の、楽しかった独身寮の仕事や、入居者を思い出してしまうので、祖母が買ってくれたものだけ、持ってきた。
ようやく身長が伸びるのも止まったことだし、独身寮の入居者のお姉さん達から頂いたお古じゃなくて、新しいお洋服でも買ってあげなきゃね。
そう言った祖母を思い出し、僅かばかり呼吸を止めた。
「OKOK~じゃ、俺はトイレにでも行って来るから、三分で着替えろ」
「は?え?」
「いいなー三分だぞー」
輝愛の抗議と言うか、問いかけと言うかも虚しく、千影は言いたい事を一方的に告げ、トイレへと消えていった。
呆気に取られていた輝愛だったが、身を翻すと、大急ぎで着替えに取り掛かった。
輝愛が身支度を終え、髪の毛をポニーテールに結い上げている頃、再び千影がのっそりと現れた。
「支度はいいか?」
「支度って・・?」
オウム返しに問う彼女に、やはり彼は答えぬまま、
「よし、んじゃ行くぞ。トーイ」
「行くって、どこに?」
訳も分からず玄関まで引っ張ってこられる。
そこで、輝愛の脳裏に、一番望ましくない想像が駆け巡った。
――施設に引き渡される――
そう思った瞬間、血の気が引いた。
ずっとこの家に居られる、なんて都合の良い事考えていた訳じゃない。
でも、施設送りにされるのはイヤだった。
両親が死んで、祖母に引き取られるまでのわずかの期間ではあるが、輝愛は施設に入っていた。
そこで行われていた虐待の数々。
それがトラウマとなっていた。
勿論、そんな施設ばかりではないのは頭で分かってはいるけれど、やはり嬉しいものではなかった。
―――ばあちゃん――
輝愛は、悲痛な面持ちで今は亡き祖母に助けを請う。
しかし、それに答えてくれる優しいシワだらけの手は、最早存在しないのだ。
「トーイ」
再び呼ばれて、初めて、彼の顔を間近に見上げた。
彼女より頭一つ以上は確実に大きい彼を、まじまじと見つめる。
いつの間にやらジャージから外出用のパンツに着替えたらしい千影は、その視線に一瞬訝しげな顔をする。
「・・・ねえ、どこに?」
消え入りそうな声で問う彼女。
それをまたしても無視し、自らはスニーカーに足を突っ込み、泣きそうになっているこの小さいお姫様を座らせる。
母親が子供にするように、彼女に靴をはかせてやる。
「ちょ・・自分で出来るよ」
子供扱いされて、怒りと照れの為に頬に朱が走る。
「あ、そーだ」
ポケットから煙草を取り出し、口にくわえ、器用に片手で火を点けて、
「俺、川橋さんな」
「かわはし?」
「そ。カワハシ」
靴を履き終えた輝愛を、半ば無理やり玄関から追い出し、尻のポケットから取り出したカギで施錠する。
「ねえ、カワハシ、一体どこに―――」
言いかけた輝愛の眼前に顔を近づけ、これまたいつの間にかけたのか、モスグリーンのレンズのサングラスを指でずらして、いたずらっぽくにやり、と笑う。
「オカイモノだ。トーイ」
そう告げると、両手をポケットに突っ込んで、勝手に歩き出してしまった。
カギをかけられてしまった為、部屋に戻る訳にも行かず、輝愛は一瞬呆けてから、急いで彼の後を追った―――
「・・・・・あ、あれ?」
「・・・・・・・・・・をい」
頬に一筋冷や汗を伝わせる彼女。
「あれ?じゃねえ」
怒気をはらんだ声で、不機嫌そうに眉をしかめる彼。
「あたし・・・いつの間に・・」
そう呟いて、刹那、はっとして、
「ああああああ、カ、カワハシ!一体あたしに何をしたー」
「何もしてねーよ」
「だったら、何であたしがココに居るの!?」
瞳に怒りの炎を浮かべ、あまつさえ涙なんぞ浮かべながら、彼女、高梨輝愛は、目の前の男、川橋千影のTシャツの襟元を掴んで、かっくんかっくんさせる。
「だああ!やめんかいクソガキ!」
千影が怒鳴り、彼女の両手を鷲掴みにし、そのままぐい、と持ち上げる。
輝愛は、丁度手枷をされたままバンザイをさせられるような状態になる。
そのまま千影は輝愛を見つめ―――
―――はあ。
一つため息をつく。
その様子を、まんじりともせず無言で口をとんがらせながら見つめている輝愛。
「・・・いいか、良く聞け」
千影は辛辣な面持ちで口を開く。
「――――お前は、病気だ」
◇
気が付くと、知らない部屋に居た。
ぼやける目をこすって、思考を起動させる。
白い天井。
グラスグリーンのカーテン。
畳の見当たらない室内。
そして、煙草の煙の匂い。
―――ああ、そうか。
むくりと起き上がり、やっと状況を把握する。
「・・・拾われたんだっけ、あたし」
借り物のTシャツとジャージに微かに染み付いた、煙草の匂いと、自分はつけたことが無いからよく分からないけど、恐らく香水の類の香り。
慣れないはずのその芳香に、何故か懐かしさすら覚えた。
「―――――煙草くさい」
「悪かったな。煙草くさくて」
ぽそりと呟いたつもりが、どうやら早々に起床していたらしい彼の耳には届いてしまったらしい。
「ひっ!」
驚いて小さく息を飲む。
その視線の先には、ダイニングテーブルに頬杖をつき、ホットコーヒーの入ったマグカップをもてあそびながら煙草をふかすという、何とも器用な真似をしている男。
「・・・・・・・・・オハヨウゴザイマス」
輝愛は、頬を引きつらせつつ布団を抱きしめ、小声で言った。
彼女は昨晩深夜、千影に拾われ、この家に連れてこられた。
帰宅するなり服をひっぺがされ、風呂に突っ込まれ、髪の毛を乾かす事すら忘れ、気付くと深い眠りの中に落ちていた。
だから、この彼、千影とちゃんと面と向かうのは、実は初めてだったりするのだ。
その第一声が、
「煙草くさい」
である。
輝愛からしてみれば、何のことは無い、寝起きの呆けた一言ではあるのだが。
相手に取ってはどうだろうか。
こんな、行く当てもない自分を拾ってくれた事に対する第一声が、そんな非難とも取れる発言だったとしたら。
怒るのも無理は無い。
至極道理である。
「トーイ」
声がした。
「トーイ」
見れば、彼がこっちを見つめ、おいでおいでと手をこまねいている。
「・・・・・トーイ?」
輝愛は訝しげに首を傾ぐ。
「そ。お前の事だ。『トーイ』」
彼は尚も手をこまねいている。
憮然とした表情で立ち上がり、彼のもとへと歩み寄る。
いきなり、おでこと首筋に大きなてのひらがあてがわれ、輝愛は思わず目を見開く。
「――?」
不思議そうな顔をして見つめる彼女を無視し、千影はわずかに表情を緩め、安堵とも取れるため息をついた。
「トーイ、お前、そこにある以外に服・・」
「だからトーイってのは?」
「・・丁度いいだろ、トーイで」
悪びれもせずに答える。
「あたしにも、高梨輝愛って言う、一応立派な名前があるんですけども」
「キア・・・・?何て字書くんだ?」
恐らく、音だけで漢字が想像つかなかったのだろう彼が、思案するような顔で宙を見つめて問う。
「輝く愛で、『キア』」
含み聞かせるように、ゆっくりと台詞を吐く。
「ふむ・・・」
何かしらひとしきり思案して、やがて納得したように息を漏らした。
「似合わん。トーイで充分」
一刀両断とは、まさにこの事か。
千影は表情を変えるでも無く、至極真面目に
「いいだろ、トーイで。はい決定~」
そう言って、パシッ、とダイニングテーブルを軽く叩いた。
「ちょっと、『決定~』って何でそんなおもちゃ呼ばわり・・・」
「おもちゃよばわりだと?」
助けてもらった恩も忘れたかのように、一気にまくしたてる輝愛に、しかし千影はわずかに首を傾げる。
「『トーイ』って、『おもちゃ』って意味でしょ」
そう言って、むーっ、と頬を膨らませる。
――――ナルホド、ね。それもそうか。
千影は心の中だけで納得の感嘆符を漏らし、すぐさま意地の悪い笑みを浮かべる。
「ってことでトーイ」
「輝愛です」
すぐさま突っ込みを入れる彼女を、またもあっさり無視して話を進める。
「俺は今日、不幸な事にお仕事がお休みだったりするのだ」
「―――?」
自慢げにふんぞり返って言う彼の真意が掴めず、眉間にシワをよせて見つめ返す。
「で、お前さんの持ち物は、アレだけだと見たんだが、違うか?」
そう言って輝愛の持っていた小さなカバンを指差した。
こっくりと、無言で頷く。
答えた輝愛に、どこか満足げに頷いてから。
「で、最初の問いに戻るわけだが、『服はそれしかないんだよな?』って聞こうとしたんだよ。俺は」
輝愛は、「ああ、その事か」と思い至って、再びこっくりと頷いた。
彼女のカバンには、着替えが一応入ってはいた。
入ってはいたが、一日分しかない。
つまり、昨日着ていた服と、カバンの中の服、二組しかないと言う事になる。
もともと、輝愛は「自分の物」の洋服は二組しか持っていないかった。
それ程、彼女と祖母の二人の暮らしは厳しかった。
いくつかもらい物もあったが、見ると祖母がいた頃の、楽しかった独身寮の仕事や、入居者を思い出してしまうので、祖母が買ってくれたものだけ、持ってきた。
ようやく身長が伸びるのも止まったことだし、独身寮の入居者のお姉さん達から頂いたお古じゃなくて、新しいお洋服でも買ってあげなきゃね。
そう言った祖母を思い出し、僅かばかり呼吸を止めた。
「OKOK~じゃ、俺はトイレにでも行って来るから、三分で着替えろ」
「は?え?」
「いいなー三分だぞー」
輝愛の抗議と言うか、問いかけと言うかも虚しく、千影は言いたい事を一方的に告げ、トイレへと消えていった。
呆気に取られていた輝愛だったが、身を翻すと、大急ぎで着替えに取り掛かった。
輝愛が身支度を終え、髪の毛をポニーテールに結い上げている頃、再び千影がのっそりと現れた。
「支度はいいか?」
「支度って・・?」
オウム返しに問う彼女に、やはり彼は答えぬまま、
「よし、んじゃ行くぞ。トーイ」
「行くって、どこに?」
訳も分からず玄関まで引っ張ってこられる。
そこで、輝愛の脳裏に、一番望ましくない想像が駆け巡った。
――施設に引き渡される――
そう思った瞬間、血の気が引いた。
ずっとこの家に居られる、なんて都合の良い事考えていた訳じゃない。
でも、施設送りにされるのはイヤだった。
両親が死んで、祖母に引き取られるまでのわずかの期間ではあるが、輝愛は施設に入っていた。
そこで行われていた虐待の数々。
それがトラウマとなっていた。
勿論、そんな施設ばかりではないのは頭で分かってはいるけれど、やはり嬉しいものではなかった。
―――ばあちゃん――
輝愛は、悲痛な面持ちで今は亡き祖母に助けを請う。
しかし、それに答えてくれる優しいシワだらけの手は、最早存在しないのだ。
「トーイ」
再び呼ばれて、初めて、彼の顔を間近に見上げた。
彼女より頭一つ以上は確実に大きい彼を、まじまじと見つめる。
いつの間にやらジャージから外出用のパンツに着替えたらしい千影は、その視線に一瞬訝しげな顔をする。
「・・・ねえ、どこに?」
消え入りそうな声で問う彼女。
それをまたしても無視し、自らはスニーカーに足を突っ込み、泣きそうになっているこの小さいお姫様を座らせる。
母親が子供にするように、彼女に靴をはかせてやる。
「ちょ・・自分で出来るよ」
子供扱いされて、怒りと照れの為に頬に朱が走る。
「あ、そーだ」
ポケットから煙草を取り出し、口にくわえ、器用に片手で火を点けて、
「俺、川橋さんな」
「かわはし?」
「そ。カワハシ」
靴を履き終えた輝愛を、半ば無理やり玄関から追い出し、尻のポケットから取り出したカギで施錠する。
「ねえ、カワハシ、一体どこに―――」
言いかけた輝愛の眼前に顔を近づけ、これまたいつの間にかけたのか、モスグリーンのレンズのサングラスを指でずらして、いたずらっぽくにやり、と笑う。
「オカイモノだ。トーイ」
そう告げると、両手をポケットに突っ込んで、勝手に歩き出してしまった。
カギをかけられてしまった為、部屋に戻る訳にも行かず、輝愛は一瞬呆けてから、急いで彼の後を追った―――
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■こんぺいとう 2 ―おもちゃのトーイ― 3 ■
気が付くと、気が付くとあたしは何故か。
何故か大量の袋を抱えていた。
「あ・・あの・・・」
所在無さげに千影の後をひょこひょこくっついて歩く様は、さながらカルガモの親子に見えなくもない。
当の声を掛けられた本人はと言えば、呼びかけが聞こえていないのか、未だに輝愛の前方をゆっくりと歩いている。
「カワハシ」
「ん?」
ようやく気付いたのか、肩越しに振り返り立ち止まる。
「コレは、一体何?」
浮かない表情のまま、抱えた袋をかざし、上目遣いに彼を見上げる。
「袋」
即答だった。
もう、気持ちいいくらいの即答。
「え、いや、そうじゃなくて」
「じゃ、ショッピングバック」
「あのね」
「腹減ったなあ」
輝愛の言葉を全く無視し、成立していない会話とも呼べない会話を繰り返す二人。
平日昼間の駅ビルである。
人はまばらで、夕方の喧騒はどこ吹く風だ。
そんな中に、この一種異様な二人は居た。
「トーイ」
いきなり呼ばれて顔を上げる。
「何?」
『トーイ』と呼ばれるのに抵抗は勿論残ってはいたが、何度抗議しても、やはりこの男は聞かなかったし、そう呼ばれる事にも慣れてしまいつつある自分がいた。
目の前には、地下の食品街へ降るエスカレーターが見える。
そこで千影は振り返り、いつにともない真剣な表情で彼女を見つめ、
「炊事はお得意?」
「は?」
「炊事洗濯家事その他もろもろはお得意デスカ?」
まるで棒読み。
大根役者も良いところである。
もっとも、彼が演技をしている訳ではないのだが、もう少し、台詞に愛嬌があってもよさそうなもんである。
面食らった輝愛だったが、一呼吸を置き、頷いた。
「お得意デスヨ」
ついこの間まで、独身寮に住み込みで働いていた彼女である。
実質祖母の名目であったとは言え、年老いた祖母に代わり、仕事のほぼ一手を担っていたのだ。
当然、寮生達の毎日の食事の世話や、寮内の清掃、洗濯など、要するに世間一般で言われるところの「家事」はお手の物である。
「なら話は早い」
言うなり千影は地下へ降りて行った。
「カワハシ?」
またしても彼女が事態を把握する前に一人、行動に移す彼。
このまま立ち尽くしても埒が明かないので、重たい袋を抱えなおし、彼の後を小走りに追った。
食品街でカートにカゴを乗せ、輝愛が持っていた荷物を全て奪い取る千影。
「あ、ありがとう・・」
「肉じゃが」
「・・・は?」
荷物を持ってもらった礼を述べたのだが、返ってきた台詞は『肉じゃが』である。
もはや、人の話を聞かないとか、そんな次元を遥かに超越している。
思わず顔をしかめて聞き返した輝愛に、しかし千影は
「きんぴら、ひじき、ぶりの照り焼き」
「はあ・・・」
「ふろふき大根、筑前煮、鯖の竜田揚げ」
勝手に料理のメニューをつらつらと挙げる。
一通り言い終えて彼女を見て、
「おっけー?」
とだけ聞いた。
・・・・作れと?
輝愛は口元に手を置いて思案する。
・・・・取りあえず、食材を買えと?
ちらり、と千影を見上げる。
「ん?」
別段表情を変えるでもない彼がそこにいた。
モスグリーンのレンズの奥にある切れ長の瞳が、一瞬細くなった気がした。
・・・・取りあえず、そーゆー事にしておこう。
輝愛は小さく一つ息をつくと、彼に向かって笑った。
「任せて」
「任せた」
それは、彼女が久々にこぼした笑みだった。
◇
鬼のような食材を買い込んで、より一層荷物が増えた帰り道。
どうやら行きとは違う道の様で、輝愛は千影の後ろを、ただただ荷物の重みと格闘しながらついて行った。
・・・・それにしても、この男は一体何なんだろう。
今更といえば今更な疑問が、彼女の頭に浮かぶ。
出会ったのは昨日。
ちゃんと顔を見たのは今朝。
名前を知ったのはさっき。
考えてみれば、彼が自分を拾って、家に置いておく必要はないのだ。
こんな自分に手を差し伸べてくれるなんざ、よっぽどの酔狂か、もしくは神様か仙人くらいのもんだろう。
・・・・・・・・・ヤバイ趣味とか?
自分で考えて自分で引きつると言う、いささか器用な芸当をしてみせる。
でも、どうにかしようと思えば、昨日のうちにどうにでも出来ただろうし。第一、自分にそんな色香があるなどとは、全く持って思わないし。
それとも、捨てられた猫でも拾った様な心境なのだろうか。
考えても埒が明かない事を悟ってか、彼女はそこで思考を中断させた。
タイミング良くと言うか何と言うか、先を歩く彼の足も、そこで止まった。
そして例の肩越しに彼女を振り返り、その姿を確認すると、目の前の小さなドアを開けて、中に入る。
輝愛も、その後を一瞬遅れて追った。
――――カラン
ドアにあつらえられたベルが、印象的な音を響かせる。
カウンターと、小さめのテーブル席が四つ。
そんなこじんまりとした喫茶店だった。
磨かれた食器が、間接照明の光を受け、淡い光を放っている。
「いらっしゃい」
カウンター越しに、ハスキーは声がかかる。
「ちわ」
千影は慣れた雰囲気で、一番奥のカウンター席に腰掛けた。
「お嬢さんも、是非お席へ」
ここのマスターであろう、品の良さそうな男性に、カウンター越しから微笑まれ、呆けていた自分に気付いて、そそくさと千影の隣の席に座る。
「お前はいつものでいいんだろう?」
背中を向け、ドリップコーヒーを用意しながらマスターが言う。
「ん、で、コイツには適当になんか出してやって」
「適当に、ね」
千影の言葉に、クスリ、と微かに笑みを漏らすロマンスグレー。
輝愛は、その様子をただ眺めていた。
「トーイ?」
右側から掛けられた声に、何故か身構えてしまう。
その声の主は、彼女を見つめると何故か不思議そうに眉をひそめる。
「何だ?その変な顔」
「いや、その」
『変な顔』呼ばわりされたにも関わらず、食って掛かりもせず、曖昧に笑って済ませる。
「なんであたしここにいるのかな、とか、イマイチ、理解が追いつかないと言うか」
そう言って、ふう、と肩を落とした。
「何でカワハシがあたしを拾ってくれたのか、とか」
―――カチャリ。
小さな音を立てて、千影の前にホットコーヒーが置かれる。
すごくいい香りだと思ったけれど、コーヒーの銘柄なんか全く知らない輝愛には、どんなものなのかは分からなかった。
それに手を付けず、輝愛を見つめ、無言で彼女の言葉に耳を傾ける。
「あたしは、どうすればいいのかなとか、どこにいけばいいのかなとか」
そこまで行って、千影はやおら口を開く。
「お前は、どうしたいんだ」
「・・・・わかんない」
「じゃ、ワカンナイまんまでいいよ」
そう言って、一口、コーヒーをすする。
「わかんないまんまで、良い?」
訝しげに問い返す輝愛。
この男の発言の突拍子も無さも理解に苦しむが、この男の思考回路はもっと想像に苦しんだ。
「見付かるまで考えろ」
「見付かるまで・・?」
千影は灰皿を受け取り、煙草に火をつける。
「見付かるまで考えろ。もがけ。苦しめ」
彼の言葉に、輝愛は口をつぐんだまま真剣な表情で聞き入る。
「逃げるのは許さん。死に、逃げるのは、許さん」
その言葉に、彼女の身体は小さくびくり、と震えた。
しかし千影は気にせず続ける。
「だからもがけ。苦しめ。あがけ。落ちる所まで落ちろ。そうすれば、後は昇るだけだ」
父親が、娘を説教する様な口調である。
もっとも、輝愛には父親と会話した記憶すらないのだが。
「衣食住は、もうあるだろう?一番必要な『居場所』は、自分で探せ」
そう言って、くしゃっ、と、彼女の髪の毛を乱暴に撫でた。
―――見透かされている。
そう思った。
この男に、こんな短期間の間に、全て自らの内を見透かされている。
そう、思った。
悔しい。
恥ずかしい。
でも、嬉しかった。
自分を受け入れてくれた人の存在が、こんなに有難いものだとは思わなかった。
泣きそうになった。
でも、泣かないように、涙も声も飲み込んだ。
顔を上げて、ただ無言で彼の瞳を見つめた。
そのレンズ越しの瞳が、わずかに細められたように見えたのは、気のせいではないかも知れない。
「おまたせ」
マスターがそう言いつつ、輝愛の前に湯気の立つカップを置いた。
「ロイヤルミルクティーだよ。お嬢さんのお口に合うと良いんですがね」
そう言って、にっこり微笑んだ。
差し出されたカップの中身を口に含むと、ほっと心が落ち着いたように感じる。
「・・・・おいし・・」
ぽそりと呟いた一言が、マスターの耳に届いたのか、彼は再び、ひどく嬉しげに微笑んだ。
その様子を無言で眺めていた千影は、再び左手でくしゃっ、と輝愛の頭を乱暴に撫でた。
「トーイ」って名前も、そこまでは悪くないかも。
頭を撫でる乱暴な大きな手を上目遣いに見ながら、彼女はそんな風に思った。
気が付くと、気が付くとあたしは何故か。
何故か大量の袋を抱えていた。
「あ・・あの・・・」
所在無さげに千影の後をひょこひょこくっついて歩く様は、さながらカルガモの親子に見えなくもない。
当の声を掛けられた本人はと言えば、呼びかけが聞こえていないのか、未だに輝愛の前方をゆっくりと歩いている。
「カワハシ」
「ん?」
ようやく気付いたのか、肩越しに振り返り立ち止まる。
「コレは、一体何?」
浮かない表情のまま、抱えた袋をかざし、上目遣いに彼を見上げる。
「袋」
即答だった。
もう、気持ちいいくらいの即答。
「え、いや、そうじゃなくて」
「じゃ、ショッピングバック」
「あのね」
「腹減ったなあ」
輝愛の言葉を全く無視し、成立していない会話とも呼べない会話を繰り返す二人。
平日昼間の駅ビルである。
人はまばらで、夕方の喧騒はどこ吹く風だ。
そんな中に、この一種異様な二人は居た。
「トーイ」
いきなり呼ばれて顔を上げる。
「何?」
『トーイ』と呼ばれるのに抵抗は勿論残ってはいたが、何度抗議しても、やはりこの男は聞かなかったし、そう呼ばれる事にも慣れてしまいつつある自分がいた。
目の前には、地下の食品街へ降るエスカレーターが見える。
そこで千影は振り返り、いつにともない真剣な表情で彼女を見つめ、
「炊事はお得意?」
「は?」
「炊事洗濯家事その他もろもろはお得意デスカ?」
まるで棒読み。
大根役者も良いところである。
もっとも、彼が演技をしている訳ではないのだが、もう少し、台詞に愛嬌があってもよさそうなもんである。
面食らった輝愛だったが、一呼吸を置き、頷いた。
「お得意デスヨ」
ついこの間まで、独身寮に住み込みで働いていた彼女である。
実質祖母の名目であったとは言え、年老いた祖母に代わり、仕事のほぼ一手を担っていたのだ。
当然、寮生達の毎日の食事の世話や、寮内の清掃、洗濯など、要するに世間一般で言われるところの「家事」はお手の物である。
「なら話は早い」
言うなり千影は地下へ降りて行った。
「カワハシ?」
またしても彼女が事態を把握する前に一人、行動に移す彼。
このまま立ち尽くしても埒が明かないので、重たい袋を抱えなおし、彼の後を小走りに追った。
食品街でカートにカゴを乗せ、輝愛が持っていた荷物を全て奪い取る千影。
「あ、ありがとう・・」
「肉じゃが」
「・・・は?」
荷物を持ってもらった礼を述べたのだが、返ってきた台詞は『肉じゃが』である。
もはや、人の話を聞かないとか、そんな次元を遥かに超越している。
思わず顔をしかめて聞き返した輝愛に、しかし千影は
「きんぴら、ひじき、ぶりの照り焼き」
「はあ・・・」
「ふろふき大根、筑前煮、鯖の竜田揚げ」
勝手に料理のメニューをつらつらと挙げる。
一通り言い終えて彼女を見て、
「おっけー?」
とだけ聞いた。
・・・・作れと?
輝愛は口元に手を置いて思案する。
・・・・取りあえず、食材を買えと?
ちらり、と千影を見上げる。
「ん?」
別段表情を変えるでもない彼がそこにいた。
モスグリーンのレンズの奥にある切れ長の瞳が、一瞬細くなった気がした。
・・・・取りあえず、そーゆー事にしておこう。
輝愛は小さく一つ息をつくと、彼に向かって笑った。
「任せて」
「任せた」
それは、彼女が久々にこぼした笑みだった。
◇
鬼のような食材を買い込んで、より一層荷物が増えた帰り道。
どうやら行きとは違う道の様で、輝愛は千影の後ろを、ただただ荷物の重みと格闘しながらついて行った。
・・・・それにしても、この男は一体何なんだろう。
今更といえば今更な疑問が、彼女の頭に浮かぶ。
出会ったのは昨日。
ちゃんと顔を見たのは今朝。
名前を知ったのはさっき。
考えてみれば、彼が自分を拾って、家に置いておく必要はないのだ。
こんな自分に手を差し伸べてくれるなんざ、よっぽどの酔狂か、もしくは神様か仙人くらいのもんだろう。
・・・・・・・・・ヤバイ趣味とか?
自分で考えて自分で引きつると言う、いささか器用な芸当をしてみせる。
でも、どうにかしようと思えば、昨日のうちにどうにでも出来ただろうし。第一、自分にそんな色香があるなどとは、全く持って思わないし。
それとも、捨てられた猫でも拾った様な心境なのだろうか。
考えても埒が明かない事を悟ってか、彼女はそこで思考を中断させた。
タイミング良くと言うか何と言うか、先を歩く彼の足も、そこで止まった。
そして例の肩越しに彼女を振り返り、その姿を確認すると、目の前の小さなドアを開けて、中に入る。
輝愛も、その後を一瞬遅れて追った。
――――カラン
ドアにあつらえられたベルが、印象的な音を響かせる。
カウンターと、小さめのテーブル席が四つ。
そんなこじんまりとした喫茶店だった。
磨かれた食器が、間接照明の光を受け、淡い光を放っている。
「いらっしゃい」
カウンター越しに、ハスキーは声がかかる。
「ちわ」
千影は慣れた雰囲気で、一番奥のカウンター席に腰掛けた。
「お嬢さんも、是非お席へ」
ここのマスターであろう、品の良さそうな男性に、カウンター越しから微笑まれ、呆けていた自分に気付いて、そそくさと千影の隣の席に座る。
「お前はいつものでいいんだろう?」
背中を向け、ドリップコーヒーを用意しながらマスターが言う。
「ん、で、コイツには適当になんか出してやって」
「適当に、ね」
千影の言葉に、クスリ、と微かに笑みを漏らすロマンスグレー。
輝愛は、その様子をただ眺めていた。
「トーイ?」
右側から掛けられた声に、何故か身構えてしまう。
その声の主は、彼女を見つめると何故か不思議そうに眉をひそめる。
「何だ?その変な顔」
「いや、その」
『変な顔』呼ばわりされたにも関わらず、食って掛かりもせず、曖昧に笑って済ませる。
「なんであたしここにいるのかな、とか、イマイチ、理解が追いつかないと言うか」
そう言って、ふう、と肩を落とした。
「何でカワハシがあたしを拾ってくれたのか、とか」
―――カチャリ。
小さな音を立てて、千影の前にホットコーヒーが置かれる。
すごくいい香りだと思ったけれど、コーヒーの銘柄なんか全く知らない輝愛には、どんなものなのかは分からなかった。
それに手を付けず、輝愛を見つめ、無言で彼女の言葉に耳を傾ける。
「あたしは、どうすればいいのかなとか、どこにいけばいいのかなとか」
そこまで行って、千影はやおら口を開く。
「お前は、どうしたいんだ」
「・・・・わかんない」
「じゃ、ワカンナイまんまでいいよ」
そう言って、一口、コーヒーをすする。
「わかんないまんまで、良い?」
訝しげに問い返す輝愛。
この男の発言の突拍子も無さも理解に苦しむが、この男の思考回路はもっと想像に苦しんだ。
「見付かるまで考えろ」
「見付かるまで・・?」
千影は灰皿を受け取り、煙草に火をつける。
「見付かるまで考えろ。もがけ。苦しめ」
彼の言葉に、輝愛は口をつぐんだまま真剣な表情で聞き入る。
「逃げるのは許さん。死に、逃げるのは、許さん」
その言葉に、彼女の身体は小さくびくり、と震えた。
しかし千影は気にせず続ける。
「だからもがけ。苦しめ。あがけ。落ちる所まで落ちろ。そうすれば、後は昇るだけだ」
父親が、娘を説教する様な口調である。
もっとも、輝愛には父親と会話した記憶すらないのだが。
「衣食住は、もうあるだろう?一番必要な『居場所』は、自分で探せ」
そう言って、くしゃっ、と、彼女の髪の毛を乱暴に撫でた。
―――見透かされている。
そう思った。
この男に、こんな短期間の間に、全て自らの内を見透かされている。
そう、思った。
悔しい。
恥ずかしい。
でも、嬉しかった。
自分を受け入れてくれた人の存在が、こんなに有難いものだとは思わなかった。
泣きそうになった。
でも、泣かないように、涙も声も飲み込んだ。
顔を上げて、ただ無言で彼の瞳を見つめた。
そのレンズ越しの瞳が、わずかに細められたように見えたのは、気のせいではないかも知れない。
「おまたせ」
マスターがそう言いつつ、輝愛の前に湯気の立つカップを置いた。
「ロイヤルミルクティーだよ。お嬢さんのお口に合うと良いんですがね」
そう言って、にっこり微笑んだ。
差し出されたカップの中身を口に含むと、ほっと心が落ち着いたように感じる。
「・・・・おいし・・」
ぽそりと呟いた一言が、マスターの耳に届いたのか、彼は再び、ひどく嬉しげに微笑んだ。
その様子を無言で眺めていた千影は、再び左手でくしゃっ、と輝愛の頭を乱暴に撫でた。
「トーイ」って名前も、そこまでは悪くないかも。
頭を撫でる乱暴な大きな手を上目遣いに見ながら、彼女はそんな風に思った。
■こんぺいとう 2 ―おもちゃのトーイ― 4 ■
「・・・・またやってしまったのですか、あたしは・・・」
むくりと起き上がり、寝ぼけ眼に、しかし冷や汗だけはしっかりと頬を伝わらせながら、輝愛は頭を抱えた。
・・・・一体いつからこんな病気になっちゃったんだろう・・・
泣きそうになりつつ、寝癖のついた頭をぽかぽか叩いてやる。
早朝である。
輝愛がこの家に来て、四回目の朝である。
一回目の朝は、気付いたら千影が目の前に座って煙草をふかしていた。
二回目の朝は、起きると何故か、千影の寝ているベッドに仲良く一緒に寝ていた。
三回目の朝も、気付くとソファーから彼のベッドに移動していた。
一昨日の朝、目を覚ますなり横に千影を確認した輝愛は、それこそ何事かと騒ぎ立て、寝ていた千影を叩き起こし、事の次第を説明させたのだが。
一方的に相手が何かを仕組んだと思って問いただして見れば、聞くところによると自分自身が悪いと言うではないか。
年頃の娘が、あまつさえ男性の布団に自らもぐりこんで行く等と言う醜態、祖母が生きていたら何と思うであろうか。
そうは頭では思っているものの、要するに夢遊病と言うやつらしく、自分ではどうにも出来ないのが現実である。
輝愛はリビングにあるソファーを間借りして、それをベッドとしている。
当然、千影は自らの寝室のベッドで寝ている。
この男の事である。
女だからと言って、居候風情に自らの寝床を提供する様な心根の持ち主ではない。
彼女自身も、それが妥当だと思っているし、その件に関して異論のあろう筈も無かった。
―――が。
朝起きてみると、夕べ眠りについたソファーではなく、彼の寝室のベッドに堂々と眠っているのだ。
一昨日はその事で泣きながら彼に八つ当たりをしたら、やはり逆に怒られた。
『迷惑しているのはこっちだ』
そう言いたげな瞳だった。
もう絶対にしない。
そう約束したのが、一昨日である。
それが昨日も、そして今日も物の見事に破られている。
「・・・・」
輝愛は無言のまま不機嫌そうな顔をして、隣の主を起こさぬ様注意を払いながら。そろりとベッドを抜け出た。
例えこの病が今すぐに治らずとも、彼が起きる前に毎日目を覚まし、彼に気付かれぬうちに布団から出てしまいさえすれば、恐らくばれる事もないだろう。
今日も、このままシラを切れば上手く行くかも知れない。
そんな風に、どこか卑屈な考えを急いで頭の中でまとめながら、気だるい足取りで洗面所に向かったのだった。
◇
「コーヒー」
千影がダイニングキッチンに顔を覗かせたのは、輝愛が身支度を整え、朝ごはんを作り終えた時だった。
「はい」
言われるが早いか、輝愛はマグカップにコーヒーを注ぎ、彼に手渡す。
彼の好みに合わせた、ブラックの、焼けるように熱いヤツである。
「ん」
マグカップを受け取ると、椅子に腰掛け、新聞を開く。
見た感じ、輝愛とは一回りくらいは違うのだろうか、と思えるくらいの年の差である。
三十路にさしかかったか否か、というところであろう。
十七の輝愛からしたら、その千影の行動が、どこか親父臭く映るのも、致し方ないと言った所か。
目は新聞に向けたまま、コーヒーを飲み下し、大きく欠伸をする。
「・・・昨日あんなに早く寝たのに、まだ眠いの?」
朝食をテーブルに乗せつつ、彼の手の中にある新聞を抜き取る。
「ここ何日か、熟睡出来ないんだよ」
新聞を奪われた事が不満なのか、不機嫌な顔で、空になった手で頬杖をついた。
「何で」
最後に箸を渡してやり、自分も千影の斜め向かいに腰掛ける。
「何でもクソもないだろう。毎晩人の事押しのけて布団占領しやがって」
眉間にシワを寄せたまま、味噌汁をすする。
毎朝コーヒーのクセに、食事は和食が好みらしいのだが、果たしてコーヒーとご飯の組み合わせはいかがなモンか。
そう思いつつ、輝愛は人知れず冷や汗を流す。
―――バレてたのね。
こっそりと抜け出したつもりで、当然、寝ていた千影には気付かれていないと思っていたのだが。
布団に突っ込んでくる時点で相手方に分かってしまっていたのなら、何とも滑稽な事である。
「いや、別にわざととかじゃないし、あたしもよく覚えてないって言うか・・・」
弁解しつつも、語尾がどんどん尻つぼみになっていき、最後の方は聞き取る事すら困難だったりする。
そんな輝愛の様子を、茶碗片手に面白そうに眺めてから、
「一昨日も言ったがな、お前は病気だ」
「う・・・」
座った目で言われて、しかも完璧自分に非があると言うのだから、反論も出なくなってしまう。
返す言葉も見付からず、仕方なくうなだれる。
「・・・・・・すいません」
謝っているのは本心。
でも、自分の意思じゃないんだから、どうしていいかも分からないのが現実。
「まあ、あれだ」
千影は玉子焼きをくわえながら、いつも通りの意地悪な瞳で言う。
「朝っぱらから叫んで飛び起きたりするってのだけは止めてくれ。心臓に悪い」
それだけ言うと、外していた視線を一瞬戻し輝愛を見つめると、またすぐにその視線を外して、
「大人しく寝てる分には、まあ、仕方ないだろうよ」
そう言って、コーヒーを喉の奥に流し込んだ。
果たしてアレで食べ物の味が分かるんだろうか?
なんて変な考えが頭を過ぎったりもしたが。
それ以上に、彼の言葉は輝愛を驚かせていた。
・・・・それって、別に怒ってないってこと?
それとも、結構優しい人だったりするのかな・・
一人思案する輝愛に、千影はやはり例の意地の悪い笑みで、
「病気だしな。仕方ないよな」
『病気』のところに、妙にアクセントを置いて嫌味を言う。
「それに――」
千影はむくれている輝愛を見もせず、更に一言。
「お前みたいなクソガキ、横で寝てたって欲情のカケラもしないしな。変な心配する前に、色気出してからにしな」
言いたいことを言うと、また食事の続きに戻った彼。
・・・・・やっぱり全然優しくない!!!
心の中で輝愛が叫んだのは、まあ、仕方ないのかもしれない。
そんな輝愛の様子を、横目で彼女に悟られぬ様に眺めながら、千影は小さく苦笑した。
―――ま、そーゆー事にしとけ、な。
彼女を眺めながら、内心薄く微笑する。
輝愛が彼のその笑みの意味を知るのは、もうしばらく先の事だ――――
「・・・・またやってしまったのですか、あたしは・・・」
むくりと起き上がり、寝ぼけ眼に、しかし冷や汗だけはしっかりと頬を伝わらせながら、輝愛は頭を抱えた。
・・・・一体いつからこんな病気になっちゃったんだろう・・・
泣きそうになりつつ、寝癖のついた頭をぽかぽか叩いてやる。
早朝である。
輝愛がこの家に来て、四回目の朝である。
一回目の朝は、気付いたら千影が目の前に座って煙草をふかしていた。
二回目の朝は、起きると何故か、千影の寝ているベッドに仲良く一緒に寝ていた。
三回目の朝も、気付くとソファーから彼のベッドに移動していた。
一昨日の朝、目を覚ますなり横に千影を確認した輝愛は、それこそ何事かと騒ぎ立て、寝ていた千影を叩き起こし、事の次第を説明させたのだが。
一方的に相手が何かを仕組んだと思って問いただして見れば、聞くところによると自分自身が悪いと言うではないか。
年頃の娘が、あまつさえ男性の布団に自らもぐりこんで行く等と言う醜態、祖母が生きていたら何と思うであろうか。
そうは頭では思っているものの、要するに夢遊病と言うやつらしく、自分ではどうにも出来ないのが現実である。
輝愛はリビングにあるソファーを間借りして、それをベッドとしている。
当然、千影は自らの寝室のベッドで寝ている。
この男の事である。
女だからと言って、居候風情に自らの寝床を提供する様な心根の持ち主ではない。
彼女自身も、それが妥当だと思っているし、その件に関して異論のあろう筈も無かった。
―――が。
朝起きてみると、夕べ眠りについたソファーではなく、彼の寝室のベッドに堂々と眠っているのだ。
一昨日はその事で泣きながら彼に八つ当たりをしたら、やはり逆に怒られた。
『迷惑しているのはこっちだ』
そう言いたげな瞳だった。
もう絶対にしない。
そう約束したのが、一昨日である。
それが昨日も、そして今日も物の見事に破られている。
「・・・・」
輝愛は無言のまま不機嫌そうな顔をして、隣の主を起こさぬ様注意を払いながら。そろりとベッドを抜け出た。
例えこの病が今すぐに治らずとも、彼が起きる前に毎日目を覚まし、彼に気付かれぬうちに布団から出てしまいさえすれば、恐らくばれる事もないだろう。
今日も、このままシラを切れば上手く行くかも知れない。
そんな風に、どこか卑屈な考えを急いで頭の中でまとめながら、気だるい足取りで洗面所に向かったのだった。
◇
「コーヒー」
千影がダイニングキッチンに顔を覗かせたのは、輝愛が身支度を整え、朝ごはんを作り終えた時だった。
「はい」
言われるが早いか、輝愛はマグカップにコーヒーを注ぎ、彼に手渡す。
彼の好みに合わせた、ブラックの、焼けるように熱いヤツである。
「ん」
マグカップを受け取ると、椅子に腰掛け、新聞を開く。
見た感じ、輝愛とは一回りくらいは違うのだろうか、と思えるくらいの年の差である。
三十路にさしかかったか否か、というところであろう。
十七の輝愛からしたら、その千影の行動が、どこか親父臭く映るのも、致し方ないと言った所か。
目は新聞に向けたまま、コーヒーを飲み下し、大きく欠伸をする。
「・・・昨日あんなに早く寝たのに、まだ眠いの?」
朝食をテーブルに乗せつつ、彼の手の中にある新聞を抜き取る。
「ここ何日か、熟睡出来ないんだよ」
新聞を奪われた事が不満なのか、不機嫌な顔で、空になった手で頬杖をついた。
「何で」
最後に箸を渡してやり、自分も千影の斜め向かいに腰掛ける。
「何でもクソもないだろう。毎晩人の事押しのけて布団占領しやがって」
眉間にシワを寄せたまま、味噌汁をすする。
毎朝コーヒーのクセに、食事は和食が好みらしいのだが、果たしてコーヒーとご飯の組み合わせはいかがなモンか。
そう思いつつ、輝愛は人知れず冷や汗を流す。
―――バレてたのね。
こっそりと抜け出したつもりで、当然、寝ていた千影には気付かれていないと思っていたのだが。
布団に突っ込んでくる時点で相手方に分かってしまっていたのなら、何とも滑稽な事である。
「いや、別にわざととかじゃないし、あたしもよく覚えてないって言うか・・・」
弁解しつつも、語尾がどんどん尻つぼみになっていき、最後の方は聞き取る事すら困難だったりする。
そんな輝愛の様子を、茶碗片手に面白そうに眺めてから、
「一昨日も言ったがな、お前は病気だ」
「う・・・」
座った目で言われて、しかも完璧自分に非があると言うのだから、反論も出なくなってしまう。
返す言葉も見付からず、仕方なくうなだれる。
「・・・・・・すいません」
謝っているのは本心。
でも、自分の意思じゃないんだから、どうしていいかも分からないのが現実。
「まあ、あれだ」
千影は玉子焼きをくわえながら、いつも通りの意地悪な瞳で言う。
「朝っぱらから叫んで飛び起きたりするってのだけは止めてくれ。心臓に悪い」
それだけ言うと、外していた視線を一瞬戻し輝愛を見つめると、またすぐにその視線を外して、
「大人しく寝てる分には、まあ、仕方ないだろうよ」
そう言って、コーヒーを喉の奥に流し込んだ。
果たしてアレで食べ物の味が分かるんだろうか?
なんて変な考えが頭を過ぎったりもしたが。
それ以上に、彼の言葉は輝愛を驚かせていた。
・・・・それって、別に怒ってないってこと?
それとも、結構優しい人だったりするのかな・・
一人思案する輝愛に、千影はやはり例の意地の悪い笑みで、
「病気だしな。仕方ないよな」
『病気』のところに、妙にアクセントを置いて嫌味を言う。
「それに――」
千影はむくれている輝愛を見もせず、更に一言。
「お前みたいなクソガキ、横で寝てたって欲情のカケラもしないしな。変な心配する前に、色気出してからにしな」
言いたいことを言うと、また食事の続きに戻った彼。
・・・・・やっぱり全然優しくない!!!
心の中で輝愛が叫んだのは、まあ、仕方ないのかもしれない。
そんな輝愛の様子を、横目で彼女に悟られぬ様に眺めながら、千影は小さく苦笑した。
―――ま、そーゆー事にしとけ、な。
彼女を眺めながら、内心薄く微笑する。
輝愛が彼のその笑みの意味を知るのは、もうしばらく先の事だ――――
■こんぺいとう 3 お仕事しましょ 1 ■
「・・・あれ?」
千影は尻のポケットをまさぐって、そこにお目当ての物がないと気付き、小さな声を漏らす。
カバンを開けて中を見てみたが、やはりそこにもない。
「やべ」
呟いて顔をしかめる。
家に忘れてきてしまったらしい。
今日は後輩に昼飯を奢る約束をしていたのに。
携帯を取り出し、時間を見る。
まだ仕事場にも着いていないのだから、間に合わないなどと言う事はないだろうが。
・・・仕事場着いたら、電話するか・・・
取り合えず、着いたら誰かに缶コーヒー買う金ないから奢ってもらおう。
などと考えつつ、千影は仕事場に向かうのだった。
「あれ?」
朝ご飯の片づけを終え、回しておいた洗濯機から取り出した洗濯物を干し終わり、一杯お茶でも飲もうかとキッチンに戻ってきた輝愛。
ダイニングテーブルの上に、黒いかたまり。
手に取ると、やはりそれは千影の財布だった。
「・・やばくない?」
無一文で仕事に行ってしまったということだ。
彼は毎日昼は外食で、財布がないと言う事はかなり困るはずで。
しかも今日は、後輩さん何人かにご飯奢らされる約束をしてる、とか言ってた筈で。
輝愛はふう、と一つため息を吐く。
「変なトコ抜けてるなあ。仕方ない、届けてあげるとしますか」
そこではたと気付く。
そういえば、自分は千影がどこに勤めているのかも、それどころか何の仕事をしてるかも知らないではないか。
どうしよう・・・
途方に暮れていると、突然、電話のベルが鳴った。
「はい、もしもし?」
二回目のベルが鳴るより早く、勢いの良い声が電話口から聞こえる。
「トーイ?」
千影は一瞬ほっとしたように息をつく。
『カワハシ、財布忘れたでしょ?』
「そー。届けてもらおうかと思って」
千影は携帯片手に肩をコキコキ鳴らしている。
『うん。場所と会社の名前おしえ・・・』
輝愛が最後まで言い終わるより早く、千影の身体は羽交い絞めにされる。
「うわ!何しやがる!」
バランスを崩し叫んでみるが、無駄な抵抗である。
「先輩、朝っぱらから誰に電話してるんですか?」
「川ちゃん、一人モンだったよね?」
「せんぱーい、俺達の飯は~」
背後にいつの間に忍び寄ったのか、千影の後輩達が電話している千影に絡みついて来る。
「やかましいお前ら!今財布届けさせるから散れ!散れ!」
相手を散らすために言った一言が、それこそ命取りである。
千影の一言に反応して、より一層興味を示す後輩達。
最も、純粋な興味とかではなく、からかえるモンはからかおう、と言う素敵な精神からであるが。
「だれ?だれが届けにくるんですかあ~?」
「彼女?嫁?女の子!?」
「だったら財布いらないから飯!手作りの飯がいいっす!」
口々に好き勝手な事を携帯に向かって叫ぶ後輩達。
もはや千影と輝愛の会話は成立していない。
『カワハシー!?』
携帯から輝愛の叫び声が聞こえる。
「やっぱり女の子じゃん!」
誰かが言うなり、千影の手から携帯を抜き取り、
「財布届けるついでに、ご飯作ってきてください!場所は――」
そう言って一方的に場所説明をして、通話を終了させてしまった。
「こら馬鹿!このくそったれどもが!」
千影は血管浮き上がらせながら叫ぶが、後輩三人に羽交い絞めにされていて動けない。
「せんぱい、ご飯たのんどきました♪」
にっこり満面の笑みで言う後輩の武田に、周りの人間もガッツポーズを作る。
そんなに手料理が嬉しいのか、はたまたただ飯が嬉しいのかは謎だったが。
――飢えてるなあ。色んな意味で。
千影は呆れながら呟く。
「ふざけんなよタケ・・・」
あまりの後輩達の無駄に旺盛な行動力に、もはや怒る気力も失せた千影は、がっくりとうなだれたのだった。
一方、受話器を静かに置いた輝愛は混乱していた。
「・・・・・今のは・・・なに・・・?」
冷や汗をたらしながら頭の中を整理する。
カワハシに財布を届けなきゃいけなくて、ついでに何故かお弁当作る事になって、電話口からの声から察するに、人数は男の人が4~5人くらいで、場所は今メモしたとこで――
噛み砕くように反芻して、はっと時計を見やると、
「10時!?」
今からお米を炊いて、おかず作ってつめて、電車乗って――
輝愛は持てる力全てを使って計算し、青ざめる。
「急がなきゃ」
叫ぶより早く、米びつに向かってダッシュをしていた。
◇
いまだにわいわい騒いでいる後輩達に、千影はしかめっ面のまま一喝した。
「お前ら全員、基礎メニュー二倍ノルマだからな!」
千影のドスの効いた渇から、『うへえ』とか何とか言いながら逃げようとする。
が、ぬらりとした瞳で睨まれ、後輩達は身体を伸ばし始めた。
「今日から立ちで動くから、ちゃんとほぐしとけよ」
千影の背後からいきなり現れたのは、千影よりも長身のがっしりした体躯の持ち主。
ここの社長の真柱紅龍(まはしら こうりゅう)である。
濡れたような短い黒髪、精悍な顔立ち。
男臭いこの会社の、まさに筆頭とも言うべき男だ。
若干32歳にして一国一城の主であり、千影の三つ上の先輩でもある。
「今日からバシバシ動くからな。頭空っぽにしとかなきゃ覚えきれないぞー」
言いつつ何故かげんなりしている千影の肩に腕を乗せ、
「そうしたよ、ちか?ご機嫌ななめだな」
紅龍は、昔から千影のことを『可愛い呼び方だろう』と言って『ちか』と呼ぶ。
おかげの紅龍の細君にまで『ちかちゃん』と呼ばれてしまうようになったのだが、千影本人はこの呼び方が、無骨な男を呼ぶには相応しくない辺りがミスマッチでなかなか気に入っている。
「どうしたもこうしたも・・俺は後輩に恵まれてないらしい」
ぼやきつつ手近に居た一人の後輩、山下茜(やました あかね)をこづく。
こづかれた山下は、「えへへ」と子供の様ににやけた。
「はあ」
千影は一層、大きなため息をついた。
◇
キッチンは、戦場と化していた――
ダイニングテーブルの上に所狭しと並んだ食材。
五段のお重には既に何品かのおかずが寿司詰め状態で詰め込まれている。
ご飯が炊き上がり、輝愛は急いでジャーの蓋を開けて、ボウルに中身を取り出し寿司酢をまぶす。
そんな事をしている間に、油の温度が適温になる。
適当にどばどばと、から揚げ肉を油の中に突っ込み、急ぎ酢をまぶしたご飯を扇いで冷ます。
「何人前作りゃいいのよ」
適当に突っ込めるだけ突っ込んでいくしかないだろう。
そろそろ時間も危うくなってきている。
最も、あんな電話口での悪ふざけ、とも取れる言葉を本気にせず、早めに財布だけ届けてしまえば良さそうなものなのだが。
輝愛は物事を真正面から受け止める性質があるらしく、頼まれた通りにこうして大量の弁当を作っているのである。
ご飯を甘く煮付けた油揚げに突っ込み、揚がったから揚げも油きりを終えてお重の中に。
煮込み終えた肉じゃがも詰め込んで、カバンに自分と千影の財布と、割り箸やら行き先を書いたメモやらを突っ込む。
五段のお重を祖母の形見の大風呂敷で包んで、彼女は身形を気にする間もなく大急ぎで家を出た。
運良くというか、輝愛がホームに降り立ったとほぼ同時に電車が滑り込んでくる。
そのまま乗り込み、座席に座ってようやっと一息つく。
時間が時間なので、車内は空いている。
輝愛が腰掛けた座席には、彼女を除いて二人しか座っていなかった。
重くて大きなお重を膝の上にしっかりと抱え、左腕にはめられた腕時計を眺める。
どうやら、正午ちょっと過ぎには向こうに着けそうである。
――良かった。
輝愛は人知れず安堵のため息を漏らし、そのままつらつらと窓の外の景色に意識を移した。
「・・・あれ?」
千影は尻のポケットをまさぐって、そこにお目当ての物がないと気付き、小さな声を漏らす。
カバンを開けて中を見てみたが、やはりそこにもない。
「やべ」
呟いて顔をしかめる。
家に忘れてきてしまったらしい。
今日は後輩に昼飯を奢る約束をしていたのに。
携帯を取り出し、時間を見る。
まだ仕事場にも着いていないのだから、間に合わないなどと言う事はないだろうが。
・・・仕事場着いたら、電話するか・・・
取り合えず、着いたら誰かに缶コーヒー買う金ないから奢ってもらおう。
などと考えつつ、千影は仕事場に向かうのだった。
「あれ?」
朝ご飯の片づけを終え、回しておいた洗濯機から取り出した洗濯物を干し終わり、一杯お茶でも飲もうかとキッチンに戻ってきた輝愛。
ダイニングテーブルの上に、黒いかたまり。
手に取ると、やはりそれは千影の財布だった。
「・・やばくない?」
無一文で仕事に行ってしまったということだ。
彼は毎日昼は外食で、財布がないと言う事はかなり困るはずで。
しかも今日は、後輩さん何人かにご飯奢らされる約束をしてる、とか言ってた筈で。
輝愛はふう、と一つため息を吐く。
「変なトコ抜けてるなあ。仕方ない、届けてあげるとしますか」
そこではたと気付く。
そういえば、自分は千影がどこに勤めているのかも、それどころか何の仕事をしてるかも知らないではないか。
どうしよう・・・
途方に暮れていると、突然、電話のベルが鳴った。
「はい、もしもし?」
二回目のベルが鳴るより早く、勢いの良い声が電話口から聞こえる。
「トーイ?」
千影は一瞬ほっとしたように息をつく。
『カワハシ、財布忘れたでしょ?』
「そー。届けてもらおうかと思って」
千影は携帯片手に肩をコキコキ鳴らしている。
『うん。場所と会社の名前おしえ・・・』
輝愛が最後まで言い終わるより早く、千影の身体は羽交い絞めにされる。
「うわ!何しやがる!」
バランスを崩し叫んでみるが、無駄な抵抗である。
「先輩、朝っぱらから誰に電話してるんですか?」
「川ちゃん、一人モンだったよね?」
「せんぱーい、俺達の飯は~」
背後にいつの間に忍び寄ったのか、千影の後輩達が電話している千影に絡みついて来る。
「やかましいお前ら!今財布届けさせるから散れ!散れ!」
相手を散らすために言った一言が、それこそ命取りである。
千影の一言に反応して、より一層興味を示す後輩達。
最も、純粋な興味とかではなく、からかえるモンはからかおう、と言う素敵な精神からであるが。
「だれ?だれが届けにくるんですかあ~?」
「彼女?嫁?女の子!?」
「だったら財布いらないから飯!手作りの飯がいいっす!」
口々に好き勝手な事を携帯に向かって叫ぶ後輩達。
もはや千影と輝愛の会話は成立していない。
『カワハシー!?』
携帯から輝愛の叫び声が聞こえる。
「やっぱり女の子じゃん!」
誰かが言うなり、千影の手から携帯を抜き取り、
「財布届けるついでに、ご飯作ってきてください!場所は――」
そう言って一方的に場所説明をして、通話を終了させてしまった。
「こら馬鹿!このくそったれどもが!」
千影は血管浮き上がらせながら叫ぶが、後輩三人に羽交い絞めにされていて動けない。
「せんぱい、ご飯たのんどきました♪」
にっこり満面の笑みで言う後輩の武田に、周りの人間もガッツポーズを作る。
そんなに手料理が嬉しいのか、はたまたただ飯が嬉しいのかは謎だったが。
――飢えてるなあ。色んな意味で。
千影は呆れながら呟く。
「ふざけんなよタケ・・・」
あまりの後輩達の無駄に旺盛な行動力に、もはや怒る気力も失せた千影は、がっくりとうなだれたのだった。
一方、受話器を静かに置いた輝愛は混乱していた。
「・・・・・今のは・・・なに・・・?」
冷や汗をたらしながら頭の中を整理する。
カワハシに財布を届けなきゃいけなくて、ついでに何故かお弁当作る事になって、電話口からの声から察するに、人数は男の人が4~5人くらいで、場所は今メモしたとこで――
噛み砕くように反芻して、はっと時計を見やると、
「10時!?」
今からお米を炊いて、おかず作ってつめて、電車乗って――
輝愛は持てる力全てを使って計算し、青ざめる。
「急がなきゃ」
叫ぶより早く、米びつに向かってダッシュをしていた。
◇
いまだにわいわい騒いでいる後輩達に、千影はしかめっ面のまま一喝した。
「お前ら全員、基礎メニュー二倍ノルマだからな!」
千影のドスの効いた渇から、『うへえ』とか何とか言いながら逃げようとする。
が、ぬらりとした瞳で睨まれ、後輩達は身体を伸ばし始めた。
「今日から立ちで動くから、ちゃんとほぐしとけよ」
千影の背後からいきなり現れたのは、千影よりも長身のがっしりした体躯の持ち主。
ここの社長の真柱紅龍(まはしら こうりゅう)である。
濡れたような短い黒髪、精悍な顔立ち。
男臭いこの会社の、まさに筆頭とも言うべき男だ。
若干32歳にして一国一城の主であり、千影の三つ上の先輩でもある。
「今日からバシバシ動くからな。頭空っぽにしとかなきゃ覚えきれないぞー」
言いつつ何故かげんなりしている千影の肩に腕を乗せ、
「そうしたよ、ちか?ご機嫌ななめだな」
紅龍は、昔から千影のことを『可愛い呼び方だろう』と言って『ちか』と呼ぶ。
おかげの紅龍の細君にまで『ちかちゃん』と呼ばれてしまうようになったのだが、千影本人はこの呼び方が、無骨な男を呼ぶには相応しくない辺りがミスマッチでなかなか気に入っている。
「どうしたもこうしたも・・俺は後輩に恵まれてないらしい」
ぼやきつつ手近に居た一人の後輩、山下茜(やました あかね)をこづく。
こづかれた山下は、「えへへ」と子供の様ににやけた。
「はあ」
千影は一層、大きなため息をついた。
◇
キッチンは、戦場と化していた――
ダイニングテーブルの上に所狭しと並んだ食材。
五段のお重には既に何品かのおかずが寿司詰め状態で詰め込まれている。
ご飯が炊き上がり、輝愛は急いでジャーの蓋を開けて、ボウルに中身を取り出し寿司酢をまぶす。
そんな事をしている間に、油の温度が適温になる。
適当にどばどばと、から揚げ肉を油の中に突っ込み、急ぎ酢をまぶしたご飯を扇いで冷ます。
「何人前作りゃいいのよ」
適当に突っ込めるだけ突っ込んでいくしかないだろう。
そろそろ時間も危うくなってきている。
最も、あんな電話口での悪ふざけ、とも取れる言葉を本気にせず、早めに財布だけ届けてしまえば良さそうなものなのだが。
輝愛は物事を真正面から受け止める性質があるらしく、頼まれた通りにこうして大量の弁当を作っているのである。
ご飯を甘く煮付けた油揚げに突っ込み、揚がったから揚げも油きりを終えてお重の中に。
煮込み終えた肉じゃがも詰め込んで、カバンに自分と千影の財布と、割り箸やら行き先を書いたメモやらを突っ込む。
五段のお重を祖母の形見の大風呂敷で包んで、彼女は身形を気にする間もなく大急ぎで家を出た。
運良くというか、輝愛がホームに降り立ったとほぼ同時に電車が滑り込んでくる。
そのまま乗り込み、座席に座ってようやっと一息つく。
時間が時間なので、車内は空いている。
輝愛が腰掛けた座席には、彼女を除いて二人しか座っていなかった。
重くて大きなお重を膝の上にしっかりと抱え、左腕にはめられた腕時計を眺める。
どうやら、正午ちょっと過ぎには向こうに着けそうである。
――良かった。
輝愛は人知れず安堵のため息を漏らし、そのままつらつらと窓の外の景色に意識を移した。
■こんぺいとう 3 お仕事しましょ 2 ■
「よっこいしょ・・と」
17歳の娘の割に、いかんせんババクサイ台詞を吐きつつ、電車を降り、改札を抜け出た輝愛。
先程の電話で殴り書きした地図のメモを、かさかさと広げ、
「―――うっ」
小さくうめいて冷や汗を垂らす。
・・・・よ・・・・読めない・・・
自分で書いた癖に、自分の字のあまりの殴り書きの汚さに頭を抱えた。
「と・・とりあえず、分かるところまで行ってみよう」
そこでダメなら、千影の携帯に電話すれば良いだろう。
そんな風に思い、輝愛は歩を進めた。
数分後―――
輝愛は半泣きになりながら道をうろついていた。
「ここはどこ・・」
ずずっ、と鼻まですすり出す始末である。
しかも、何だか人通りが少なくて道を聞こうにも誰も居ないし、勿論携帯電話なんか持ってないし、何でか公衆電話も全然見当たらないし―――
と、途方に暮れている輝愛の肩が、背後からぽん、と叩かれた。
「!?」
慌てて振り返ると、そこには長身の美人が、にっこり笑って立っている。
その女性は、半泣きになっている輝愛に優しく
「どうしたの?」
と問いかけた。
「み・・道に迷っちゃったんです・・」
地獄に仏とはまさにこの事か。
輝愛は泣きそうになるのを必死にこらえながら、唯一暗記していた千影の会社の入っているビルの名前を告げる。
「タブチビル?」
「はい」
女性はいささか驚いたような表情をしたが、すぐさま元の笑顔に戻って、輝愛に丁寧に道を教えてくれた。
聞いてみると何のことは無い。
一本道を間違えていただけだったらしい。
何度もお礼を述べ女性と別れ、ようやっと目的地の前までやって来たのだが。
だが。
・・・ビルって言うより、工場みたい・・・本当にここなのかな・・
こくり、と喉を鳴らす。
扉をそろり、と僅かに開けて、中の様子を伺って見る。
「うわ・・」
彼女は思わず小さな声を漏らした。
お・・・男ばっかり・・・
しかも全員が全員スーツ等着込んでおらず、家での千影の様に、Tシャツやらジャージやらで、首からタオルをぶら下げていたりする。
「ここ本当に会社なの?」
目をきょろきょろさせてみるが、その中に、肝心の千影の姿は見受けられない。
・・・間違えちゃったのかなあ・・・
そんな不安が過ぎった瞬間、
―――あ゛
中に居た人物のうちの一人と、ものの見事にまともに視線が合ってしまった。
その男は睨み付けるように輝愛を眺め、こちら側に歩いてくる。
―――逃げなきゃ!
なんでそう思ったのかは分からない。
ただ、この人は怖そう、怒られるかも!
と言った意識が勝手に働き、そう思い込んでいた。
勢い良く扉が開き、男と輝愛は対峙する。
「ご・・ごめんなさい」
かすれる声で後退る。
が、男は輝愛の手に抱えられた荷物を見るなり表情を崩し、
「入んな」
と一言言って、輝愛の肩を抱いて中に導いた。
うそー!怖いー!殺されるー!
動揺しきった輝愛は、固まったまま中へ連れ込まれる。
怖いよー!カワハシー!!
「これ、多分ちかのところのだろ?あれ?ちかは何処行ったんだ?」
輝愛の肩を抱く男が、Tシャツやらジャージやらの軍団に声をかける。
「ち・・ちかって・・誰ですか」
輝愛は室内中の人間の視線を一斉に受けるのが居た堪れなくなり、自らより遥か背の高い男を仰ぎ見た。
「ん?ちかのとこの子だろ?川橋だよ、川橋千影」
「ここにカワハシが居るの!?」
思わず荷物を握り締め、大声で問い返す。
「居るに決まってるだろ。じゃなきゃお前、何しにここに来たんか分からんだろうが」
呆れたように輝愛を見る男。
瞬間、ギャラリーと化していた連中がざわついた。
「やっぱり川ちゃんとこの子か!」
「うーわー女の子だ女の子!」
「ちっさー!わっかー!」
「ちょっと近くで見ても良い?」
口々に好き放題言って、輝愛に近付いて来る。
普通の状態ならば、相手の真意も分かるだろうが、混乱している輝愛にとって、それは脅威だった。
――リアルに、怖い!!
「・・・カワハシー!助けて-!!」
「トーイ?」
人の群れの中から、聞き慣れた声がした。
どうたら煙草を買いに出ていたらしく、手には封の切られていない煙草が見える。
「カワハシ~」
輝愛はあまつさえ瞳に涙なんか浮かべながら、千影の元へ駆け寄った。
「こわかったよー」
もはや何がどうなって何が怖いのか、訳が分からなくなって、そしてそのまま泣きそうになっている。
その輝愛のいつもとは明らかに違う態度に、千影は一瞬首を傾げる。
「怖かったって・・・まさか、お前ら、何かしたのか!?」
何で自分が泣いているのか、あんまり理解出来ていない輝愛を抱えたまま、千影はものすごい引きつった顔で後輩達を見る。
「ま、まさか!まだ何もしてないですよ!」
「まだ触ってもいないし!」
武田と山下が千影の睨みに怯え、ぶんぶか手と首を振りながら弁解するが、千影はぴくっ、と眉を跳ね上げて、
「まだとは何だ『まだ』とは!」
「いや、でも川ちゃん、ちょっとくらい見せてくれたって・・」
「そうそう、女の子なんて滅多にここに来ないんだし・・」
「俺はむしろ腹減りましたよせんぱーい」
3馬鹿トリオ、と社長や社長の細君や千影に呼ばれている武田、山下、橋本の三人が、性懲りも無く輝愛に近づこうとして、手を伸ばす。
勿論、純粋に輝愛に対しての興味もあるのだが、大部分はやはりと言うかなんと言うか、千影をいじって遊ぼう、という素敵な精神が根本にある。
「・・そーゆー事なら、俺も見たい」
「俺も川ちゃんとこの嫁?彼女?拝ませてもらいたいなあ~」
3馬鹿トリオに乗じて、他の後輩達までもが加勢してくる。
・・・・誰も嫁とも彼女とも妹とも言っては居ないのだが。
なんて、こんな状況でも千影は密かに内心突っ込みを入れてみたりもする。
しかし、こうなってしまってはやはり多勢に無勢である。
千影は可愛い可愛い後輩達に、朝同様に襲われそうになり、一足飛びに退いて、絡まってくる後輩達に向け一喝した。
「だあああああ!うちのに触んじゃねえええ!」
「おっかねー」
千影の結構真面目な大声に、ようやっと後輩達はやはり笑みを絶やさぬまま退いた。
何の事は無い。
ただこれ以上ノルマを増やされるのが嫌だからである。
「ったく、どいつもこいつも・・」
肩で荒くぜーはーと呼吸をして、やっと輝愛を開放する。
そしていささか真剣な面持ちで彼女を見つめ、
「何もされてないんだよな?」
「うん、まだされてない」
にっこり笑う最愛の娘分の台詞に、千影はがっくりと肩を落とす。
「・・・・・・・お前まで『まだ』とか言うなよな・・・」
その微妙な膠着状態を打ち破ったのは、最年長の紅龍だった。
「で、その娘を紹介がてら、そろそろ昼飯にしたいんだが、どうだろうね?ちか?」
「あ」
千影は今更ながら輝愛から財布とでかでかとした、一体何人前あるのかと思うような弁当を受け取った。
「よっこいしょ・・と」
17歳の娘の割に、いかんせんババクサイ台詞を吐きつつ、電車を降り、改札を抜け出た輝愛。
先程の電話で殴り書きした地図のメモを、かさかさと広げ、
「―――うっ」
小さくうめいて冷や汗を垂らす。
・・・・よ・・・・読めない・・・
自分で書いた癖に、自分の字のあまりの殴り書きの汚さに頭を抱えた。
「と・・とりあえず、分かるところまで行ってみよう」
そこでダメなら、千影の携帯に電話すれば良いだろう。
そんな風に思い、輝愛は歩を進めた。
数分後―――
輝愛は半泣きになりながら道をうろついていた。
「ここはどこ・・」
ずずっ、と鼻まですすり出す始末である。
しかも、何だか人通りが少なくて道を聞こうにも誰も居ないし、勿論携帯電話なんか持ってないし、何でか公衆電話も全然見当たらないし―――
と、途方に暮れている輝愛の肩が、背後からぽん、と叩かれた。
「!?」
慌てて振り返ると、そこには長身の美人が、にっこり笑って立っている。
その女性は、半泣きになっている輝愛に優しく
「どうしたの?」
と問いかけた。
「み・・道に迷っちゃったんです・・」
地獄に仏とはまさにこの事か。
輝愛は泣きそうになるのを必死にこらえながら、唯一暗記していた千影の会社の入っているビルの名前を告げる。
「タブチビル?」
「はい」
女性はいささか驚いたような表情をしたが、すぐさま元の笑顔に戻って、輝愛に丁寧に道を教えてくれた。
聞いてみると何のことは無い。
一本道を間違えていただけだったらしい。
何度もお礼を述べ女性と別れ、ようやっと目的地の前までやって来たのだが。
だが。
・・・ビルって言うより、工場みたい・・・本当にここなのかな・・
こくり、と喉を鳴らす。
扉をそろり、と僅かに開けて、中の様子を伺って見る。
「うわ・・」
彼女は思わず小さな声を漏らした。
お・・・男ばっかり・・・
しかも全員が全員スーツ等着込んでおらず、家での千影の様に、Tシャツやらジャージやらで、首からタオルをぶら下げていたりする。
「ここ本当に会社なの?」
目をきょろきょろさせてみるが、その中に、肝心の千影の姿は見受けられない。
・・・間違えちゃったのかなあ・・・
そんな不安が過ぎった瞬間、
―――あ゛
中に居た人物のうちの一人と、ものの見事にまともに視線が合ってしまった。
その男は睨み付けるように輝愛を眺め、こちら側に歩いてくる。
―――逃げなきゃ!
なんでそう思ったのかは分からない。
ただ、この人は怖そう、怒られるかも!
と言った意識が勝手に働き、そう思い込んでいた。
勢い良く扉が開き、男と輝愛は対峙する。
「ご・・ごめんなさい」
かすれる声で後退る。
が、男は輝愛の手に抱えられた荷物を見るなり表情を崩し、
「入んな」
と一言言って、輝愛の肩を抱いて中に導いた。
うそー!怖いー!殺されるー!
動揺しきった輝愛は、固まったまま中へ連れ込まれる。
怖いよー!カワハシー!!
「これ、多分ちかのところのだろ?あれ?ちかは何処行ったんだ?」
輝愛の肩を抱く男が、Tシャツやらジャージやらの軍団に声をかける。
「ち・・ちかって・・誰ですか」
輝愛は室内中の人間の視線を一斉に受けるのが居た堪れなくなり、自らより遥か背の高い男を仰ぎ見た。
「ん?ちかのとこの子だろ?川橋だよ、川橋千影」
「ここにカワハシが居るの!?」
思わず荷物を握り締め、大声で問い返す。
「居るに決まってるだろ。じゃなきゃお前、何しにここに来たんか分からんだろうが」
呆れたように輝愛を見る男。
瞬間、ギャラリーと化していた連中がざわついた。
「やっぱり川ちゃんとこの子か!」
「うーわー女の子だ女の子!」
「ちっさー!わっかー!」
「ちょっと近くで見ても良い?」
口々に好き放題言って、輝愛に近付いて来る。
普通の状態ならば、相手の真意も分かるだろうが、混乱している輝愛にとって、それは脅威だった。
――リアルに、怖い!!
「・・・カワハシー!助けて-!!」
「トーイ?」
人の群れの中から、聞き慣れた声がした。
どうたら煙草を買いに出ていたらしく、手には封の切られていない煙草が見える。
「カワハシ~」
輝愛はあまつさえ瞳に涙なんか浮かべながら、千影の元へ駆け寄った。
「こわかったよー」
もはや何がどうなって何が怖いのか、訳が分からなくなって、そしてそのまま泣きそうになっている。
その輝愛のいつもとは明らかに違う態度に、千影は一瞬首を傾げる。
「怖かったって・・・まさか、お前ら、何かしたのか!?」
何で自分が泣いているのか、あんまり理解出来ていない輝愛を抱えたまま、千影はものすごい引きつった顔で後輩達を見る。
「ま、まさか!まだ何もしてないですよ!」
「まだ触ってもいないし!」
武田と山下が千影の睨みに怯え、ぶんぶか手と首を振りながら弁解するが、千影はぴくっ、と眉を跳ね上げて、
「まだとは何だ『まだ』とは!」
「いや、でも川ちゃん、ちょっとくらい見せてくれたって・・」
「そうそう、女の子なんて滅多にここに来ないんだし・・」
「俺はむしろ腹減りましたよせんぱーい」
3馬鹿トリオ、と社長や社長の細君や千影に呼ばれている武田、山下、橋本の三人が、性懲りも無く輝愛に近づこうとして、手を伸ばす。
勿論、純粋に輝愛に対しての興味もあるのだが、大部分はやはりと言うかなんと言うか、千影をいじって遊ぼう、という素敵な精神が根本にある。
「・・そーゆー事なら、俺も見たい」
「俺も川ちゃんとこの嫁?彼女?拝ませてもらいたいなあ~」
3馬鹿トリオに乗じて、他の後輩達までもが加勢してくる。
・・・・誰も嫁とも彼女とも妹とも言っては居ないのだが。
なんて、こんな状況でも千影は密かに内心突っ込みを入れてみたりもする。
しかし、こうなってしまってはやはり多勢に無勢である。
千影は可愛い可愛い後輩達に、朝同様に襲われそうになり、一足飛びに退いて、絡まってくる後輩達に向け一喝した。
「だあああああ!うちのに触んじゃねえええ!」
「おっかねー」
千影の結構真面目な大声に、ようやっと後輩達はやはり笑みを絶やさぬまま退いた。
何の事は無い。
ただこれ以上ノルマを増やされるのが嫌だからである。
「ったく、どいつもこいつも・・」
肩で荒くぜーはーと呼吸をして、やっと輝愛を開放する。
そしていささか真剣な面持ちで彼女を見つめ、
「何もされてないんだよな?」
「うん、まだされてない」
にっこり笑う最愛の娘分の台詞に、千影はがっくりと肩を落とす。
「・・・・・・・お前まで『まだ』とか言うなよな・・・」
その微妙な膠着状態を打ち破ったのは、最年長の紅龍だった。
「で、その娘を紹介がてら、そろそろ昼飯にしたいんだが、どうだろうね?ちか?」
「あ」
千影は今更ながら輝愛から財布とでかでかとした、一体何人前あるのかと思うような弁当を受け取った。
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