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桃屋の創作テキスト置き場
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■紅■




 闇が、あった。
 深く、大きな、闇が。
 その只中に、俺は居た。
 そこに在る物は、戦慄、恐怖、驚愕、畏怖。
 ぐるぐると彼を支配しようとするそれらに。
 彼は吐き捨てる様に、小さく、呟く。
 
 ――もう、嫌だ
 
 紅い両手を見つめながら。
 彼の手は、血に染まっていた。
 洗っても、洗っても、落ちない。
 紅い、両手――

 ――嫌だ

 彼は苦悶の表情を浮かべながら、自らの肩を抱く。
 紅い、紅い、紅い。
 どこを見渡しても同じ色。紅の、紅だけの世界。
 動く筈の影は消え失せ、立ち尽くすのは自分。
 ただ、一人。


 ――嫌だ嫌だ嫌だ
 

 汗の雫が、顎を伝う。
 小刻みに震えているのが、自分でもはっきりと分かる。
 
 ――殺したかったんじゃない。
 
 殺したくない。
 もう殺したくない。
 大切な人を。
 大切だった人を。
 
 大切な、彼女を――


 ――もう、何もかも嫌だ――
 

 うずくまり、肩を抱く手に力を込める。
 しかし、いくら自分で自分を抱いてはみても、振るえは納まる筈も無かった。
 そして、又、動き出す。
 自らの意思に反して。
 哄笑が辺りを埋め尽くし、又、紅が広がって行く。
 でも、
 でも俺は――
 俺は泣いて――

 そう、泣いていて――



 ◇



「うあああああっ!!」
 叫んで、目を開ける。
 動悸が治まらず、何度も浅い呼吸を繰り返し、ごくり、と唾を飲み込む。
 ――最悪だ
 見たくない景色。
 しかし、何よりも鮮明な残像。
 畏怖だろうか。背徳だろうか。
 何がしかに押し潰されて行く自分。しかし、それも仕方の無い事なのか。
 自らの犯した、自らの罪だ。
 望むと望まざるとに関わらず。
 そう、俺の、俺自身の罪だ――

 大きく息を付くと、再びゆっくりとまばたきをする。
 身体中が、嫌な汗で濡れている。
 ――これも、罰なのかな、やっぱし・・・
 大切な人はもう作らない。そう決めた筈の自分の、自らによる裏切りに対する。
 起き上がろうと、上体を僅かに持ち上げた。
 瞬間、首筋に冷たい感触が走る。

「・・・・・・・・・・・・・をい」
 ジト目で、その元凶を睨み付ける。
「ん、目が覚めたか」
 彼が横たわるベッドに腰掛け、いつも通りに彼、ライナ・リュートの首筋に剣をあてがっている金髪の美女ー
 フェリス・エリスは、当然ながら悪びれた様子も無く、いつも通りの無表情な顔で言う。
「今日も清清しい目覚めだろう」
 言いつつ、朝っぱらから片手で持った団子をぱくつく。
「・・・・フェリス、お前、毎朝毎朝起き抜けの人の首に、剣突き付けるクセは人としてどうかと思うぞ・・・」
 ライナは疲れた声で、相棒に言う。
「ん、問題無い。この世界一の美貌を持つこの私が、わざわざ変態色情狂の部屋まで出向き、爽やかな目覚めを演出してやっているのだ。感謝しろ」
 相変わらず、表情の読めない仏頂面。
 会話をしながら、もさもさと最後に一個を口に含む。
 一見、いつも通りの何も変わらない朝。
 しかしライナは、彼女の僅かな表情の変化も見て取れた。
「・・・・何でそんなに不機嫌なんだよ?」
 言いつつ、何事も無かったかの様に欠伸をする。
 そう、悪夢なんて見なかった。とでも言う様に。
「不機嫌・・だと?この私が」
 フェリスは、片方の眉を僅かに跳ね上がらせる。
「なんかさ、そー見えるんだけど。どうした?団子があんま旨くなくて、アル中みたいに中毒発作でも起こしてるのか?」
 気だるそうないつもの口調で、いつも曖昧な笑みを浮かべながら、いつものくだらない冗談を言う。


 フェリスは、そんなライナを見つめながら、実際の所苛立っていた。
 ――この男は、何故いつもこうなのか。
 このふざけた発言も、取り繕う為の嘘の笑みも、私が気付かないとでも思っているのだろうか。
 自分一人で抱え込んで、一体何が変わると言うのか。
 しかし、この男は自分に弱みを見せる所か、今し方までしていた苦悶の表情さえ、無かったかの様に押し隠してしまっているではないか。
 フェリスは、ライナの虚勢に腹が立っていた。


「ライナ」
「んあ?」
 欠伸を繰り返す相棒に、フェリスは一瞬眼差しを強める。
 その表情を見て取ったのか、ライナはバツの悪そうな表情を見せたが、すぐにそっぽを向いてしまう。
 まるで、何事も無かったかの様に。
 全て、夢幻であるとでも言う様に。

 放って置けば。また眠れぬ夜を繰り返し、その度にうなされ、しかしそれをひた隠し、眠いだの昼寝させろだのとのたまい、又、口先だけで笑うのだろう。
 この男は。
 それを一番良く知っているからこそ、フェリスはこの相棒に腹を立てていた。


「そうだ。お前の言う通りだ。私は今機嫌が悪い。それもこれも全部、変態色情狂のおかげだ」
「・・・・・・・・・で?俺に何をさせたい訳?また名物団子のセットでも買って来いって事?」
 昨日、この辺りで一番と誉れ高い団子の老舗に、フェリスの命令で3時間も並ばされた事を思い出し、うんざりするライナ。
「いや、そんな事では無い。私は今とても面白い事を思い付いた」
 フェリスの目が、目標のライナを射抜く。
「・・・いや、出来ればそーゆーのは心の底から遠慮したいんだが・・・」
 言い淀むライナに、フェリスは
「黙れ。今から私が貴様の主人だ。さあ、ライナ犬!主人の前にひざまずけ!」
「って、何で俺が犬な訳?ついに人間以下に格下げ?」
「犬が嫌なら死体でも構わん。死体になってみるか?死体は聞き分けが良さそうだしな。
 ・・・うむ、では早速ー」 
 言ってフェリスは、ライナの額に剣を突き付ける。
「あー・・・っち、フェリス様・・おっしゃる通りにしますんで、どうかその剣をお納め下さい・・・」
「ん、初めから大人しくしていれば良いものを。手間を取らせるな」
 言って剣を鞘に収め。彼女の元にひざまずく様に促す。
「はあー」
 いきなりと言えばいきなり過ぎなフェリスの行動に、ライナはしぶしぶ重い腰を上げて、ベッドに座るフェリスの足元の床にひざまずく。
「・・・・一体何だってんだ・・・・こっちはただでさえ寝覚めが悪いってのに・・・・」


 ぶつくさ小さく文句を言うライナに、フェリスは無言で彼の首に、その腕を回した。


「・・・・・・・・・・・・・へ・・・??」
 間抜けな声を上げるライナ。
 しかしフェリスは離す所か、強く、彼を抱きしめる。
「フェ、フェリス・・さん?一体何がどうなって・・・・」
 事態が飲み込めずうろたえるライナ。
 犬とか言われてたのは、まさかこの為だったのか。
 自分を抱きしめる為に、フェリスが一芝居打ったと言う事なのだろうか。
 だが、一体何故―?
「・・・・・・・・・馬鹿者が・・・・・・・」
 小さく、彼女が呟く声が聞こえた。
 押し殺した様な、怒ったような、
 でも、少し、悲しそうな―。

「怖いか」

 瞬間、ビクっと身体が強張る。
 フェリスが何を言っているのか、直ぐに気付いてしまったから。

「怖いか、ライナ」

 フェリスのしなやかな金髪が、ライナの鼻をくすぐる。
 甘く、優しい香りに、ライナの肩が震えた。


「私は、怖くは無いぞ。怖い等とは、微塵も感じない」
「お前は何が怖い?」
「その力か?自分自身か?それともー」


 観念したのか、抑えていた物が溢れ出したのか、ライナはフェリスの背に腕を回し、
「――又、失ってしまう・・・」
 ライナは、涙を零さない様、歯を食いしばって声を絞り出した。
 フェリスは縋り付いて来るライナを優しく、それこそ優しく抱きしめ、彼の髪の毛を撫でる。
「失う?何を?」


 ――我ながら、意地の悪い質問だと思った。
 しかし、聞きたかったのだ。彼からの言葉が。
 ライナが何を想い、何を望み、何を恐れているか。
「大切な――全てを・・・・フェリス、お前を・・・」
 ゆっくりと、静かに言葉を紡ぐライナ。
 そう。もう嫌なんだ。
 大切な人。大切な人。大切な人。
 ライナがそう想う人が出来る度、ライナはその人を失って来た。
 俺が悪魔だから?
 俺が化け物だから?
 ライナは震えていた。

「ライナ」

 はっきりと、澄んだフェリスの声も。
 照れ隠しで出る悪口も。
 彼女のこの優しい香りも。
 ライナにしか分からない彼女の微かな微笑みも。
 

 ――今度はフェリスまで失うと言うのか――


 そんなのは、嫌だ。
 失う位ならいっそ、離れてー
 離れてても、失ってしまうよりは・・・

「大馬鹿者」
 フェリスの真っ直ぐな声が、ライナの思考を遮る。
「私は死なない。そう言った筈だ」
 少し怒った様な、それでいて、ライナにはとても心地よく響く声。
「お前は真性の大馬鹿者だからな。一度で分からないなら、何度でも言ってやる。
 いいか、私は死なない。
 お前では私を殺せない」
 染み込む様に、舞い降りてくる声。
 彼女の、大切な彼女の声。
 フェリスはきつく彼を抱きしめ、柔らかく髪を撫でながら。
「不安ならば聞けば良い。苦しければ言えば良い。寂しければ縋れば良い。
 私は何度でもお前に言ってやる。言葉にしてお前に伝えてやる。ライナ、お前に届くまで、何度でも何度でも言葉にしてやる」
 フェリスは腕の力を緩め、ライナの顔を見る。
 その紅い瞳を覗き込む。
 青い、蒼い、綺麗な目だ。
 ライナは思った。
 自分の、紅い、紅い瞳とは正反対の。
 濁らず、曇らず、淀まず。真を見据える、フェリスの、その瞼にそっと。
 そっと唇を寄せた。
「・・・・・・スケベめ・・・・」
 フェリスは赤くなって、目を逸らした。
 その仕草が愛しくて、ライナは再びフェリスの肩に頭をもたげた。
 彼女の瞳に寄り添っていれば、或いは失わずに済むのかも知れない。

「フェリス・・・」
「ん?」
 聞き取れない程の小さな声で。
「-ありがとう」
 返事は返って来なかった。
 その代わり、先程のお返しと言わんばかりに、ライナの頬に、
 涙の跡の付いた頬に、唇を落とし、
 頬を真っ赤に染めて
「お前の涙の味、共有してやろう。お前の涙にかけて、私はお前を守る」
 きっぱりと言い放つ彼女。
「女に守られるのが悔しかったら、お前も私を守ってみろ」
 そう言って、真っ赤なままの顔をぷい、と背ける。
 ・・・・・恥ずかしいなら、キスなんかしなきゃいいのに・・・
 フェリスの仕草に、苦笑しながら、ライナは立ち上がる。
 フェリスの金の髪の毛を一房手に取って、口づけをする。
「・・・・・・・必ず・・・」
 ライナがそう言うと、フェリスは例の、彼にしか分からない微笑を浮かべた。
僅かに開いた窓から、柔らかな日差しが振って来ていた。


「フェリス」
「ん」
「お前のおかげで俺はー」
 強い春の風が音を立てて過ぎ去る。
「待て、ライナ、声が風に掻き消されてー」
「俺はー」
 ライナはフェリスの耳元で呟くと、押し殺したような笑みでは無い、彼女の為だけの微笑をー。

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